【35】落ちぶれた女の日々(義母視点)
――わたくしの人生、こんなはずではなかったのに。
悪魔のようなあの女に、すべて狂わされてしまったわ……。
「……ぅ、ぁあ……っ」
低い呻き声を漏らしながら、バーバラは目を覚ました。視界に移り込むのは、装飾の乏しい地味な天井。――今日の目覚めも最悪だ。
バーバラは、毎日のように悪夢を見る。アレクの爵位継承式――あの日の屈辱を。
幼い孫に裏切られ。
嫁に嵌められ。
聴衆にあざ笑われる。
その情景が暗闇の中で何度も蘇り、バーバラの首を絞め上げる。
こんなはずでは。
こんなはずでは――。
でも、現実は変わらない。
ここはノイエ=レーベン侯爵領内の、古くて小さな田舎屋敷の寝室。
爵位継承式で「隠居」を命じられ、ここに住まいを移されてから既に7か月も過ぎている。
この屋敷は手入れこそされているものの、豪華さの欠片もない。「飾り気のない清潔感」と言えば聞こえはよいが、バーバラにとっては耐えがたいほどの貧乏臭さだ。
(こんな場所ただの牢獄よ。わたくしはまるで囚われの姫……なんて憐れなのかしら)
最初は、逃げだそうとした。
けれど監視は厳しくて、外出も騎士同行の短時間のみ。
こんな村、何の楽しみもない。
社交場には二度と出られない。
豪奢なドレスも着られない。
かつてのように人が群がってくることもない。ノイエ=レーベン侯爵家の当主代行だった頃は、あれほど持てはやされていたのに――今では誰ひとり訪ねてきやしない。
窓ガラスに映る自分を見て、思わず顔を背けた。
老いさらばえた、惨めな女がそこにいた。
艶やかに染め上げていた黒髪も白髪交じりにくすんでしまい、手入れの行き届かない髪はボサボサ。肌もしわだらけで乾ききっている。
支給される美容費は、以前の五分の一以下。美を保つには金が不可欠だというのに。
ジェシカから届いた手紙には、「領民のために不要な出費を控えています」と書かれていた。……癪に障るにもほどがある。
ジェシカからは、これまで二度ほど手紙が送られてきた。健康を気遣う文面が書き連ねてあったが、どうせ偽善だ。本心ではあざ笑っているに決まっている。
必ずジェシカに復讐してやる! ――最初はそんな気持ちに燃えていた。けれどその火も、今ではほとんど色褪せてきた。
もはや逃げ出す気力が湧かない。逃げたところで頼る相手などいないのだから。
「ああ……」
深いため息をつきながら、バーバラは宝石箱からネックレスを取り出した。
6年前、レオンが出征直前にジェシカへ贈った、美しい一粒石のネックレスだ。バーバラはレオンの出立後、すぐにジェシカから取り上げて宝石箱にしまいこんだ。
隠居を命じられてこの屋敷に引越したとき、久々に宝石箱を開けてみたのだが――なぜか、ネックレスの石が《《真っ黒に変色》》していた。
「以前はきれいな青色だったはずだけれど……いつの間に変色したのかしらね」
バーバラには、理由がさっぱり分からない。
生前のレオンは『国外遠征のときに手に入れた古代の宝飾品』だと言っていたから、石が劣化してしまったのだろうか?
黒ずんだ石の嵌ったネックレスだけが、今となってはレオンの唯一の形見だ。
悲しい気分を振り払いたくて、バーバラはそれを自分の首に付けてみた。けれど、まったく気持ちは晴れない。
(レオンさん。あなたさえ生きていてくれたら、あの嫁に思い知らせてやれたのに)
息子は自分を裏切らない。
もし生きていたら、必ず自分を助けてくれたはずだ。――だってあの子は、いつだってわたくしの味方だったのだから。
レオンは幼い頃から優しい子だった。
ひどく寡黙でどこか遠い目をしていたけれど、バーバラが何をしても突き放したりしなかった。
しかしレオンが天に召された今、バーバラはひとりぼっちだ。
(……わたくしを遺して逝ってしまうなんて、あんまりだわ。レオンさん……)
暑苦しい夏の空気に、息をするのも厭わしい。
今日もきっと何もせず、気だるいまま一日を終えることになるだろう。
どうでもいい。もう、何もかも……。
そのとき。
こつん、と窓の外で小さな音がした。
「……鳩?」
足輪をつけた白い鳩が、窓枠にとまっている。これは伝書鳩だ……でも、どこからの?
バーバラは窓を開けた。
この窓はバーバラが逃亡できないように、大きく開かない構造になっている。だが、換気のために掌一つ分くらいは開けられるようになっていた。
伝書鳩がひょいと部屋に入ってくる。
足輪の手紙を読み、バーバラは眉を顰めた。
「デゥネット商会……。懐かしい名前ね」
デュネット商会は、かつてバーバラがレース織りの裏取引で大儲けしていた商会だ。だが、今さらなんの用だろう?
「ジェシカ様が裏取引を完全に断って清廉な取引のみを行っているため……幣商会は多大な損害を……。つきましては、再びバーバラ様のお力を……」
ふん。と、思わず鼻で笑ってしまう。
「そんなこと、できるなら何の苦労もないわ! 今のわたくしに、一体何ができるというのよ」
しかし、手紙の末尾に目を走らせた瞬間に、呼吸が止まった。
「なんですって。レオンさんが……生きている!?」
デュネット商会長の筆跡で、はっきりと書かれている。
レオンが魔の森から生還して、ノイエ=レーベン侯爵家の当主に戻ったと。
バーバラの瞳に、久しく失せていた輝きが爛々と戻ってきた。
「ああ! 神様はまだ、わたくしを見放さなったのね……!」
レオンさんさえ戻ってくれば、わたくしはもう負けない。
あの嫁を――ジェシカを地獄に叩き落としてやる!
にたぁ、と口元を歪めて文机に着いたバーバラは、返事の手紙を綴り始めた――。





