【28】遠い日の記憶(夫視点)
12歳の時、私は生家であるレーベン公爵家を出奔した。
理由は単純だ。
私の存在が、家を二分していたからだ。正嫡の姉アニエスを、これ以上脅かしたくはなかった。
母バーバラの、私への執着ぶりは異常だった。その執着が純粋な愛情とは思えず、アニエスや正妻アリシア夫人を踏みにじるための手段であったように感じた。
母が不正な手段で公爵家に入り込んだらしいということは、幼い頃から知っていた……つまり私という存在は、本来あってはならないのだと。
家出するために使用人の服を拝借して、髪は短く刈り上げた。
私は年齢の割に体格が良かったから、若い使用人の変装をするのは簡単だった。さほど苦労もなく、屋敷を抜け出すことができた。
二度と戻る気はない。
フード付きの外套を羽織った私はあてどもなく歩き続け、気づけば見知らぬ街道にいた。持参していたわずかな金品で食べ物を買い、物乞いのようなこともしながら数週間。とある小都市をさまよっていたある日、事件に出くわした。
『きゃあああ――!』
絹を裂くような悲鳴が響く。
『……お嬢様が!! 誰か、お嬢様を助けて!』
侍女服の女性が地に倒れ、血を流している。その向こうで、傭兵崩れのような男が小さな少女を抱えて逃げていた。
――誘拐だ。
体が勝手に動いていた。男を追いかけ、背後から当て身を食らわせる。男は大きくふらついて、少女を取り落した。少女は地に伏したままぐったりしている。
『何しやがる……このガキ!』
男の懐から出たナイフが閃くより早く、その腕を蹴り上げた。ケンカは初めてだが、剣と護身術なら学んできた。握りしめた拳で顎を殴り上げると、相手は勢いよく昏倒した。白目を剝いて泡を吹き、ぴくぴくと痙攣している。
私は、少女を助け起こした。豊かな大地を思わせる、褐色の髪が美しい少女だ。歳は私より4、5歳くらい幼いだろうか。
『……大丈夫か』
涙で濡れた翡翠色の目が、まっすぐに私を見つめている。よほど怖かったのだろう、蒼白な顔をして、震える指でしがみ付いてきた。
『もう、心配いらない』
小さな膝に血が滲んでいる。私は自分の袖を裂き、清潔な部分を包帯代わりに巻き付けてやった。
『……ありがとう』
震えながらも、はっきりと告げてくれた。誰かに『ありがとう』と言われるなんて、いつぶりだろう? ……胸の奥が、ぽかぽか温かくなった。
その後すぐに、彼女の護衛と思しき者たちが駆けつけてきた。
『ジェシカお嬢様――!』
……ああ、この子はジェシカというのか。
もう心配はいらなそうだ。立ち去ろうとすると、彼女は私の手を掴んだ。
『待って! 何か、お礼を』
『いらない』
『じゃあ、せめてお名前を……』
『名乗るほどの者ではない』
外套のフードを目深にかぶり直して、そっけなくそう答えた。別に恰好を付けたかった訳ではない。公爵家の家出息子だと知られたくなかっただけだ。
ジェシカの指をそっと解き、逃げ出そうとしたそのとき。
『あなた、まるで騎士様みたい……!』
騎士様みたい。
言われて、とくんと胸が鳴った。
ふり返ると、ジェシカの瞳は宝石のように輝いていて。
――嬉しかった。誇らしかった。
今までどんなに頑張っても、こんなふうに褒められたことはなかったのに。
私が頑張れば母が増長するし、アニエスやアリシア夫人は悲しんだ――だから私は、消えようと思ったんだ。でも、このジェシカだけは違う。
私の中で、世界が変わった。
『わたし……あなたのこと、忘れない! 助けてくれて本当にありがとう』
救われたのは、むしろ私だ。
嬉し泣きの涙を拭って、私はその場から駆け去った。
――騎士になろう。
本物の騎士になって、ジェシカに恥じない生き方をしよう。そのために、一度家に戻る決意が固まった。
母や家には束縛されず、誰かを救える騎士になってみせる。
***
回想から現実へと意識を引き戻し、私は深い息を吐いた。
私の胸の上で、ジェシカがすやすや眠っている。あのときの少女が今では私の妻になり、息子まで産んでくれていた。
――愛しさが、込み上げてくる。
私はそっとジェシカを抱き上げ、ベッドへ運んだ。少し距離を取り、自分もベッドに寝そべりながら彼女を見つめた。
(どうやらジェシカは、昔のことを覚えていないようだ)
酔いながら、彼女は「なぜ私を妻に?」と問いかけてきた。手紙には書いたはずだが、彼女の記憶には留まらなかったのかもしれない。
(それとも、まだ手紙を読んでいないのか?)
一瞬そうも思ったが、有り得ないと思い直した。さっきジェシカ自身が言っていたではないか――「手紙のおかげでカシウスに会えた」と。
(……そういえばジェシカは、あのネックレスを身に着けていないな)
出征直前に贈った、『時間を巻き戻す古代魔導具』を。私自身の身代わりとしてジェシカを守るために贈ったつもりだったが……身に着けるも着けないも、もちろんジェシカ自身の自由だ。一抹の寂しさは感じるが、もちろん彼女への想いは変わらない。
(長く独りぼっちにしてしまったのだから、隔たりがあるのは当然だ。この空白の年月を、少しずつでも埋めていきたい。そのためには、もっと会話を……)
そのとき。大きく寝返りを打ったジェシカが、こちらへ身を寄せてきた。そのまま、きゅっと私にしがみついてしまう。
「……っ。ジェシカ……?」
「んぅ……」
無防備に身を擦り寄せて、ほっとしたような笑みを浮かべた。
(どうして急に。…………あぁ、熱源か)
今日は少々冷えるから、温かい物を引き寄せたかったのだろう。私は筋肉質なので、良質な熱源なのかもしれない。
少し迷いながら、ジェシカの華奢な肩を抱き寄せた。
柔らかな髪から、ふわりと石鹸の香りがする。
(今日も『愛している』と告げられなかったな――)
だが、次の機会がある。これからはずっと一緒に暮らせるのだから。
胸の奥に満ちる幸福を噛み締めながら、私も眠りに落ちていった。
明日も昼夜の投稿です!(書き溜めが危うくなってきました…が、がんばります!)





