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【25】二度目の夜

次話は夜に投稿……とお伝えしていましたが、おもいのほか良いペースで執筆できているので本日は昼・夜投稿します!

――その日の夜更け。

湯あみを終えた私は、夫婦の共寝室に続く廊下をひとりで歩いていた。

もうすぐ初夏だというのに、なんだか今日は肌寒い。絹の寝衣の上にガウンを羽織っているけれど、薄ら寒さに自分の肩を抱き、私は小さく震えていた。


……身体が震えているのは、寒さのせい? もしかすると、恐ろしさのほうが強いのかもしれない。


(あの寝室を訪れるのは、結婚初夜以来だわ。もう、6年以上前のことなのね)


二度目の初夜。そんな言葉が脳裏をかすめ、一夜の契りを思い出す。羞恥に顔が熱くなったけれど、胸の中に蘇ってきたのは甘い恋愛感情(ときめき)なんかじゃあない。

心を通わす余裕すらない、義務と責任だけの交わり。

彼の鋭い眼差しに射抜かれ、その大きな身体に圧倒されて私はひどく緊張していた。だから初夜のことはほとんど覚えていない。

旦那様との初夜よりずっと、バーバラお義母様から受けた仕打ちのほうが鮮烈な記憶だ。


(……それにしても今日は、何のつもりで寝室に呼びつけたのかしら)


『言いたいことがある』と言っていたから、使用人やアレクには聞かせられないようなひどい罵声を浴びせてくるのかもしれない。もしかすると、力づくで私を従わせようとするのだろうか。……二人きりの寝室となれば逃げ場はないし、誰にも助けてもらえない。


旦那様を知る人は、皆一様に『人格者だ』と褒めるけれど。私は彼の人柄なんて、まるで知らない。人づての高評価を鵜呑みにできるほど、私は純粋ではなかった。一度目の人生がひどい死に方だったから、そうそう他人を信用できない。


(本当は、旦那様と二人きりになんてなりたくないわ。……怖くてたまらない。でも、絶対に屈したりするものですか)

アレクやモニカ、皆が私を心配してくれている。

だからこそ、私はこの家の女主人としてどんな理不尽にも負けるわけにはいかない。たとえどんな責め苦に遭っても、情けない姿は晒さない。


そんなことを考えているうちに、とうとう共寝室の扉の前まで来てしまった。この重厚な扉の先には6年以上もの間、空白だった『夫婦』という関係性が待ち構えている。鼓動がひどくうるさくて、扉の向こうにまで聞こえてしまいそうだった。


何度か深呼吸してから、ゆっくりとノックする。


「失礼いたします、旦那様。ジェシカです」

すると「入ってくれ」という短い返事が返って来た。

覚悟を決めて扉を押し開ける。次の瞬間――。


――香ばしいチーズの香りが、ふわりと鼻腔に飛び込んできた。


なぜか、美味しそうな匂いが寝室いっぱいに満ちている。

え? 何してるの。というツッコミが、思わず口からこぼれ出そうになった。

「……旦那様?」


寝室のテーブルには小型の魔導炉が置かれ、その中心に据え付けられた魔石から青白い炎が揺らめいている。……ちなみに魔導炉は、軍の野営や冒険者の野外調理で使われている携帯用の調理器具だ。


魔導炉の上に乗せられた薄い鉄板と格闘しているのは、まさかの旦那様だった。

チーズをナイフで薄く削っては鉄箸で均一に並べ、香草を散らしながら焼き加減を見て、焦げ目が付くたび器用にひっくり返している。


「旦那様……そ、それは……?」

「チーズだ」

見れば分かります。

「この調理法は、行軍中に覚えた」

それは聞いてません。


旦那様は絶妙な焼き加減に仕上げたチーズをクラッカーに乗せると、丁寧にお皿に並べていった。その横には、赤ワインのボトルとワイングラスがふたつ。……どう見ても、これは晩酌の準備だと思う。


……なんで?

なんでこの人、お酒とおつまみなんか用意しているの?

無表情なはずなのに、どこかそわそわして見えるのは気のせいだろうか。

焼きたてチーズのじゅうじゅうじゅう……という音が、妙に静かな寝室の中に響き渡っている。


私がぽかんとしていると、不意に旦那様が眉間にしわを寄せた。

(えっ……? 私、何か怒らせるようなことしました?)

完全無欠の美貌は、小さなしわが寄るだけでも薄氷に亀裂が走ったような一触即発感が出る。

「……聞きそびれた。貴女はチーズが苦手だろうか」

「…………好きですが」

「……………………そうか」

しわが消えた。


(いや、『そうか』じゃなくて。なんなんですか、この状況は)


呆然と立ち尽くす私を前に、旦那様はこほん、と咳払いをした。それから、キッと目じりを吊り上げる。

(ひっ……!)

凄まじい迫力に、思わず背筋が伸びてしまった。


「座ってくれ」

ソファに腰を下ろした彼は、自分のすぐ隣の席をポン、と手で叩いて着席を促した。

「……はい。失礼いたします」


「昔、上官から教わった。――腹を割って話すときは、酒を囲めと」

「……さようですか」


腹を割って話す……? 誰と? って、私しかいない……わよね?


旦那様は静かに赤ワインのボトルを傾け、それぞれのグラスに注いでいった。丁寧な所作はとても洗練されており、さっきまで焼きチーズクラッカーをお手製していたときのイソイソとした仕草とは、まるで別人のようだった。


それからひどく真剣な表情で、私にワイングラスを差し出してきた。


「あ、ありがとうございます……?」


意味不明だ。

いきなり晩酌ってどういうこと?


「まずは乾杯しよう」

「はい……」

口汚く責められ、手ひどく扱われることを覚悟して来たのだけれど……? なぜかお酒とおつまみを提供されて、私は言葉を失っていた。


次話は今夜(11/22)の20時頃です。

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