【1】二度目の始まり
「この役立たず!」
甲高い罵声と同時に、頭から水を浴びせられた。あまりの冷たさに息が止まる。髪から滴り、背や胸をびっしょり濡らす水に凍えながら……それでも、私ははっきりと笑っていた。
――ああ、神様ありがとうございます。
神様?
悪魔?
べつにどちらでも構わないわ。
大事な点はただひとつ、私の時間が巻き戻ったのだということ。
冷たい牢獄で息絶えたはずの私ジェシカ・ノイエ=レーベンは、なぜか数年前に回帰していたのだ。
(死に戻りなんて歌劇や小説の中だけのことだと思っていたけれど……。まさか、本当にあるなんて)
ふと気づいたら私はメイドのお仕着せを着ていて、膝をついて床を磨いている真っ最中だった。
「なんて嘆かわしい! あなたのような方がこのノイエ=レーベン侯爵家の若夫人だなんて! 天国の旦那様もさぞお嘆きでしょうね」
蔑みの声を降らせているのは侍女のナタリー。年齢は私と同じくらいだけれど、この侯爵邸内でのナタリーの立場は私よりも遥かに上だ。
(……そういえばナタリーの手首には、大きな火傷の痕があったわね)
彼女が嵌めている白手袋の隙間からチラリと火傷の痕が見え、妙に懐かしいと思った。
髪先からぴしゃんと滴り落ちる水。
真冬の冷気に刺される素肌。
遠巻きに私を見やる使用人たちの視線――侮蔑とあわれみが、ない交ぜになったそれ。
すべて既視感。
間違いなく、私はかつてこの瞬間を経験している。
(……でも、これは何年前のこと?)
ナタリーが『天国の旦那様』と言ったから、夫であるレオン様はすでに戦死したのだろう。
氷の騎士侯爵レオン・ノイエ=レーベン。
騎士階級から侯爵にまで成り上がった稀代の英雄にして、私の夫。
結婚式を挙げた次の日に軍を率いて邪竜討伐に赴き、半年後には帰らぬ人となった。……なぜ私のような弱小伯爵家の娘を妻に選んだのか、その答えを聞く機会もないまま。
このセルジア王国は『魔の森』と呼ばれる太古の森に隣接しており、古くから魔物の侵攻に悩まされてきた。魔物の中でも最強種と呼ばれる邪竜の大群が国境を侵し、レオン様の率いる部隊は、多大な犠牲を払ってそれを殲滅。
レオン様の遺体は、見つからずじまいだった。
竜は強者の肉を好むため、討ち損じた邪竜が遺体を巣に持ち帰ったようだ――というのが王宮からの最終報告だった。
(夫婦なんて名ばかりで、心の通い合いなんてまるでなかったわ……)
夫について覚えているのは、ニコリともせずに臨んだ結婚式での英雄然とした立ち姿。
言葉少なく終わった初夜。
どう見ても、彼が自ら望んだ婚姻のようには見えなかった。
氷のような銀髪と鋭い碧眼、すっと通った鼻筋。彼の冷たい美貌と鍛え抜かれた巨躯に、私はただ委縮するばかりで。
一度きりの交わりの夜、低い声で「痛みはないか」と問いかけられた。
愛してもいない女性のことさえ気遣えるのだから、騎士の鑑に違いない――と余裕のない頭で思った。
義母のバーバラは、事あるごとにこう言った。
『わたくしのレオンさんに相応しい花嫁など、いくらでもいたのですよ? ジェシカさん、あなたはただ都合がよかっただけ。そうでなければ、あのレオンさんがあなたなど選ぶものですか!』
きっと義母の言うように、英雄には英雄なりの事情があったのだろう。義母はひどく私を嫌っていて、嫁入り道具や出征前にレオン様がくださったネックレスなど、すべて私から奪っていった。出征前の夫が妻に何かを遺すのは、この国では大事な風習だというのに。
(お義母様のレオン様への執着ぶりは異常だったわ。……なにが『わたくしのレオンさん』よ、気持ち悪い)
……そう思ったのは一度や二度ではなかったが、一度も口から出したことはなかった。義母は、この侯爵家の絶対的な権力者なのだから。
レオン様亡きあと、バーバラは侯爵家の当主代行として実権を握った。外交・内政ともに卓越した手腕を振るい、彼女が育成した織工たちが生み出す精緻なレース織りは、ノイエ=レーベン侯爵領を支える一大産業へと発展した。
また、義母の美貌は六十歳に迫ってもなお衰えを見せず、妖艶な黒髪に赤バラのような唇の彼女は社交界の華。……栗毛に緑瞳の私など、義母の前では雑草同然である。
どれほど古参の使用人でも、バーバラに睨まれれば居場所はなくなる。若夫人である私も、それは同様であった。
だから死に戻る前の人生、私はバーバラに一度たりとも逆らわなかった。
嫁いだ以上は夫の母を敬い従う――それが貴族社会では美徳とされる。
現実問題として、圧倒的な格下貴族出身の私には服従以外の選択肢はなかった。この縁談を心から喜んでくれた実家の家族のためにも、善き嫁でなければならない。
(――バカね、ジェシカ。それでもあなたは、戦わなければいけなかったの)
レオン様の命と引き換えに為された邪竜討伐のおかげでこの国は平和になったが、私の災厄は終わらなかった。義母バーバラの要求は際限なく膨れ上がり、私はすべてを奪われた。最終的には有らぬ罪を着せられて、冷たい獄中で命を落とすことになる。
(アレク……)
自分のお腹に手を当てた。ここに、息子は今いるだろうか?
――いない。
平らなお腹を見て背筋がぞっと寒くなった。今の時点ではすでに、息子のアレクは産まれているのだ。
義務で果たした旦那様との一夜に授かった、侯爵家唯一の嫡子。
私のたった一人の子。
けれど義母は、そのアレクさえも私から奪った。
ただの一度も、『ママ』と呼ばれたことさえなかった。
抱きしめたかった。抱きしめ返されたかった。あの柔らかな銀髪を梳いて『愛しているわ』と伝えたかった。
「……ふふふ」
思わず、笑みがこぼれていた。
いきなり声を出した私に、侍女のナタリーが表情をこわばらせる。
「……っ。何ですか? とうとう頭がおかしくなりましたか? 他の仕事もさっさと済ませてくださいね……!」
気味の悪いモノでも見たかのように、ナタリーは踵を返すと足早に歩き去っていった。
(私は間違えていた。……もう絶対に、同じ過ちは繰り返さないわ)
誰かにもらった二度目の人生。何があっても、私はアレクを取り返す。
冷たい床に膝を突いたまま、私は声を立てて笑った。





