9.アルフォンス十歳
街にも慣れてきたおかげで、どんな店がどこにあるかなどの情報は自然と頭の中に入るようになってきた。あそこに行ってはいけませんよと、大人たちが眉をひそめるような場所もね。
で、そんな眉をひそめるような場所のひとつに酒場が含まれているというわけだ。ほとんどの酒場は宿屋と娼婦がセットになっていて、そりゃあ子どもが近づくのを快く思わないよなと考えたりもしたけれど、まあ、中に入らなければ大丈夫だろうと高をくくることにした。
下町からスラムへ向かう途中にある酒場『風見鶏の丘』は、個人経営の酒場としては規模が大きく、商人に町民などいろいろな人々が出入りしている。
昼夜を問わず、大盛況の店内は、日本で言うところの上野アメ横とか、赤羽にあるような居酒屋を彷彿とさせる。真っ昼間から飲んべえたちが集い、チーズや干し肉などをつまみにエールを喉に流し込むのだ。
くそう……。俺だってこの見た目じゃなければ、いますぐにでも飛び込んで、心ゆくまで酒を堪能しているんだけどなあ……。子どもに転生してしまった自分が憎いっ!
……こほん。話題がそれてしまった。あくまで俺は情報収集のためにここを訪れたわけであって、酒を飲みに来たわけじゃないんだよな。
頭を軽くかき回した俺はあたりを見回した。そして酒場の出入り口から少し外れたところに、影を潜ますように座り込み、聞き耳を立てる。この場所なら大人たちの注意を引くこともなく、酒場の中の話し声も聞こえるはずだ。
酒場は様々な情報のるつぼでもある。噂話やゴシップ話、王国内外の情勢や地域情報、政治に対する不平不満などなど。
それらの質や真偽のほどはさておくとして、必要以上にかしこまった教会の教えよりも、柔軟性に富んだ情報や知識を入手できるだろう。そう考えて、俺はここに足を運んだというわけだ。
なにせ酒場は騒がしい。特にここ、『風見鶏の丘』は、出入り口ギリギリにまで席が配置されているようで、その喧噪は二軒隣にも響き渡るじゃないかってぐらいで、俺は計画通りとばかりに耳を澄ませては情報収集に努めることにした。
で、一分も経たずに聖徳太子の逸話を思い出したね。一度に十人の話を聞き分けたってやつ。
もう、情報収集どころじゃないの。うるさいったらありゃしない。
たくさんの客であふれる店内で、自分の声を通そうとするのは大変なんだろうな。それに酒の力もある。耳なんか澄ませなくとも、次から次に大声が届くわけ。何を言っているかなんて全然わかんないの。
そうだよなあ。日本でも賑やかな居酒屋で会話をするためには、なかなかの声量を必要としたもんな。少し考えればわかることだったのに、すっかり頭から抜け落ちていたな。
とはいえ。とはいえ、ですよ?
通いつめたら、この環境にも耳が慣れていくんじゃないかと。聖徳太子は無理だとしても、一組ぐらいの会話は頭にいれることが可能になるんじゃないかと。
そう思い直した俺は、しばらくの間、『風見鶏の丘』へ通い詰めることに決めた。
本音を言えば店内に入りたいけれど、瞬間、叩き出されるに決まっているので、引き続き店の外で様子をうかがうことにする。
特段悪いことをやっているわけではないんだけど、場所が場所だけに、老夫婦にバレたら大事になってしまう。あの心優しい人たちに悲しい思いをさせないためにも、細心の注意を払いながら、こっそりと行動に移ること、実に五日間。
慣れると思っていた喧噪。全っ然、慣れないもんだね。もう、マジで無理。何言っているのかまったくわかんないの。
いや、なんとなくだけど、政治に対する不満とかを話しているんだろうなとかはわかるんだよ。でもね、それを上回るような怒声が響いたり、あるいは喧嘩が始まる声とか湧き上がったりとかで、聞き分けることは不可能に近く。
(……これは、このままここに来たところで無駄足になるだけかもしれない)
落胆のため息を漏らし、どうしたものかと頭を悩ませていた、その時だった。覆い被さるようにして現れた人影に、俺はふと視線を上に上げたのである。
「坊や。こんなところで何をしている?」
気付けば、赤褐色の短い頭髪をした、いかつい顔の男が、観察するような眼差しをこちらに向けている。
「数日前からここに座り込んでいるのを不思議に思っていたが、その様子では、どうやら親が出てくるのを待っているわけじゃなさそうだな。いったい、何をやっていたんだ」
心の奥底を見透かすような瞳は、周囲にいる大人たちには決して見られないものだった。
上辺だけの取り繕った言葉や偽りは決して通じない、そういう意志の強さがうかがえる。俺は、多少、怒鳴られても仕方ないと覚悟を決め、酒場に来た目的を話すことにした。
「大人たちの話を聞きにしたんだ。教会では教えてもらえないような情報や、この国の実情が知りたくて」
うーん、我ながら、少しも子どもらしくない言動だな。こちらの世界の道徳観はいまいちわからないけれど、一、二発殴られても文句は言えない。
とはいえ、そんな偏屈な回答が、意外にも男の意表をついたらしい。顎に手をあて、思案顔を浮かべた男は「ふむ」と呟き、なおも続ける。
「それで? それを知ってどうする。まさか知識欲だけでここに来たわけではないだろう?」
さて、どう答えたものか? 数秒の間、考え込んだ俺は、こうなりゃヤケだと、むしろ開き直りにも近い心境で、幼い容姿に見合わない、ひねくれた言葉を続けるのだった。
「この国で、どう生きていくべきか。それを見極めるためにも知識を蓄えたいんだ」
いかつい顔をした男は、今度こそ反応に困ったのか、何度か瞬きし、それから数拍を置いて、笑い声を上げた。
「なるほどなるほど。理由としては十分すぎるな。子どもにしては可愛げがないが、生きていく上では賢い考えだ。……坊や、名前は?」
「アルフォンス」
「そうか、アルフォンス坊や。俺はゲラルト。傭兵団の団長というケチな商売をやっている」
そう言うと、ゲラルトは俺に「ついてこい」と身振りで示し、扉を開けて酒場の中へと入っていく。戸惑う俺をよそに、不敵な笑みを浮かべたゲラルトは語をついでみせた。
「坊やが望んでやまない知識ってやつを教えてやろう。もっとも、そのかわいらしいお耳には耐えきれないものも多いだろうがな」
***
店内中に染みついたアルコールの匂い、そして一斉に集まる好奇の眼差し。それらを一切気にしないとばかりにゲラルトは奥へ奥へと進んでいくと、おそらく定位置なのだろうテーブルの一角に腰を下ろした。
「団長。いつの間にガキなんてこしらえたんです?」
配下の傭兵たちが笑い声を上げながら、エールの入ったジョッキを差し出す。それを受け取りつつも、ゲラルトは何も応じない。
「あら、お堅い団長さんが子ども連れなんて妬いちゃうわね。アタシのアプローチに応えてくれなかったのは、その子のせい?」
今度はやけに色っぽい女性が、ゲラルトにもたれかかり、そのいかつい顔に手を添えた。娼婦なのだろうか? と、考えるよりも早く、ゲラルトは慣れた様子でその手を払い、女性を追い払ってから口を開いた。
「どうだい、坊や。社会勉強にはうってつけの場所だろう?」
皮肉とも受け取れる言葉は、帰るならいまのうちだぞとも受け取れて、俺は対峙するように、子どもには背の高い椅子によじ登ると、傭兵団の団長を見据えるのだった。
「もちろん。思っていたとおりだね」
これは皮肉でも何でもなく本音である。日本も異世界も、酒場の雰囲気は大差ない。会社員時代は、こういう雑多な安居酒屋に足繁く通ったもんだ。ある種の懐かしさすら感じてしまう。
興味深げに俺を見据えたゲラルトは、やがて店員を呼び寄せて、果物の盛り合わせを注文した。
「酒はまだ早いだろう。果物だったら、家に帰っても夕飯は食えるだろうからな」
ジョッキの中身をあっという間に飲み干して、二杯目を注文しつつ、傭兵団の団長はさらに続ける。
「それで? 何を知りたいんだい、坊や?」
知っていることなら教えてやるというその様子に、俺は内心で驚喜しつつも、表面上は冷静さを保ってゲラルトに臨むことにした。経験上、この手の人物は食えない性格をしていることが多い。対応を間違えれば、すぐにでも酒場の外に放り出されるだろう。
まずは興味を持ってもらうことが肝心。そう考えて、俺はあえて大上段から切り出した。
「できれば王国の政治体制や税制度、それらを民衆がどう感じているか。ほかにも他国との外交状況の話などが聞ければベストかな」
およそ十歳の子どもが問いかける内容ではない。俺が言い終えると、あっという間に爆笑の渦が沸き起こった。
「ガキがそんなことを知ってどうするんだ」
「そうだぜ。そういう小難しいことはな、オレたち大人に任せておけばいいんだ」
容赦のない言葉を次々と浴びながらも、俺は動じない。そういう反応が返ってくるのは当然だろうなと考えていたからだ。
なおも続く嘲笑は、だがしかし、ゲラルトの一言で止むことになった。
「黙れ」
決して大きくもないその言葉は、人々を圧倒するのに十分すぎるほどの効力を発揮し、団長は凍てつくような眼差しを周囲に向けた。
「この坊やが知りたいと願うことを、お前たちのどれぐらいが正しく理解しているんだ? 小難しいことは大人に任せろというが、この坊やが納得できるだけの知識を、お前たちが与えることができるのか?」
「…………」
「他人の行動をあざ笑うよりも前に、まずは自分のことを顧みるべきだ。相手が誰であれ、賞賛すべき行為をたたえることは悪いことじゃない。そうだろう?」
あたりが嘘のように静まりかえったあと、ゲラルトはあらためてこちらに向きおなり、静かな笑みをたたえながら話題を転じた。
「もっとも坊やの問いに対し、おれも正確に答える自信がない。しかし、まあ、ここには一癖も二癖もある連中が集まっているからな。ご期待には応えられるだろうさ」
そうして、いくつかの名前を口にしたゲラルトは、数名をテーブルに呼び寄せ、同席するように声をかける。
「こいつらは役人や貴族たちとも取引のある商人だ。おれなんかより、よっぽど情勢に通じている。せっかくだから話を聞かせてもらうんだな」
困惑と迷惑が半々といった面持ちの商人たちなど気にもとめず、ゲラルトは俺に質問するよう促した。いいのかなあと思いつつも、またとない好機には違いないので、ここはひとつお言葉に甘えることにしようと、俺は矢継ぎ早に質問を投げかける。
ゲラルトにしてみれば、妙な子どもの妙な行動に興味を持っただけなのかもしれない。暇つぶしの延長線上にアルフォンスという子どもがいただけという、単にそれだけの理由で酒場に誘った可能性も捨てきれない。
しかしながら、この時から俺とゲラルト、傭兵団『暁の狼』との長い親交が始まったのだった。アルフォンス十歳の時である。
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本日はここまで!
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