8.アルフォンス九歳
勝つにせよ、負けるにせよ、戦いが終われば事後処理というものが待っている。
負傷者の治療、死者を弔うこと、捕虜交換、それに伴う身代金の請求などなど……。
後者は城に戻ってからでも良かったんだけど、帝国に捕らえられた捕虜の中にはミヒャエルの取り巻きが含まれていて、“救出”を急がなければいけない事情もあり、俺が責任を負って執り行うことになった。
まったく……、のんびりと悠々自適な生活を送るという当初の目的はどこにいってしまったのか?
次から次へと襲い来る、決裁待ちの書類をため息交じりに眺めながら、俺はふと、この世界にやってきた頃のことを思い返していた。
あの時はまだ、夢や希望を自由に描けていたんだけどなあ……。
***
目覚めて、視界に飛び込んできたのが知らない天井だった場合、俺は間違いなく、「ついに過労で倒れて病院に運ばれたのか」とか考えるわけだ。次に、いつ労働基準監督署に駆け込むかとか、そういった類いのことをね。
でも、いつになっても看護師は現れない。傷病手当の書類を書いてくれる医者も。
天井の作りも現代建築のそれとは異なり、いびつな石材で作られた、なんだか薄暗い空間ときてはさすがに違和感を覚えてしまう。
おまけに……、なんだか、身体の感覚がおかしい。力の加減もわからず、眼前にかざした手は焼けに小さいし。眼鏡なんてかけなくても、あたりの光景がクリアと見えるほどに、視力も回復しているときてる。
(……なるほど、夢を見ているのか)
自然と導き出された結論に納得し、俺は再び目を閉じる。夢の中で目覚めるとは、なんとも器用な真似ができたもんだなとか考えつつ、ああ、この夢が覚めたら、また満員電車に揺られて出勤かとか、うんざりした気持ちに陥ったりもしてしまう。
せめて一分一秒でも早く眠ることができますように……なんてことを思っていると、耳元に優しい声が届くのがわかった。
「アルフォンス、アルフォンスや。起きなさい、もう朝ですよ」
……あるふぉんす? 誰だそりゃ? まあ、間違いなく俺ではないので関係はない。はい、おやすみなさい。良い夢を……。
「ほら、アルフォンス。あなたも、もう九歳、お兄さんになったのでしょう? 寝ぼすけさんだと、お友だちに笑われますよ」
そう言いながら、俺の身体を揺らす優しげな声。三十半ばを過ぎたオッサンを捕まえて、九歳の子ども扱いとは、勘違いも甚だしい。一瞬、そういうプレイかと考えなくもなったけれど、バブみとか、その手の性癖とは無縁なのだ。
夢の中とわかっているとはいえ、いい加減、腹立たしくなってきた俺は、文句の一つも言ってやろうと目を開けた。そこには老婆の穏やかな表情があって、この人に悪態をついてもいいものか躊躇を覚えていると、こちらの様子をうかがっていた老婆は、微笑みを浮かべて呟くのだった。
「ああ、ようやくお目覚めね、アルフォンス。朝ご飯はできているから、顔を洗ってらっしゃい」
……いったんはこの老婆の言葉に従っておいた方がいいのかもしれないな。そう思い、ベッドから抜け出した俺は、夢の中にもかかわらず、家の間取りを把握しているという謎を覚えつつも、洗面所に向かうのだった。
そして、鏡を見て絶句する。映っていたのは、無精ひげを蓄えたオッサンではなく、肌つやのよい子どもの顔だったからだ。
現代日本の会社員から、見知らぬ世界の少年アルフォンスへ転生した、最初の記憶がこれである。
いやね、俺も最初は何かの間違いなんじゃないかと思ったよ。精神の錯乱とか、過重労働で妄想と虚構と現実の区別がつかなくなったのかとかね。
でもね、どうあがいても、結局のところは異世界転生してしまったらしい。マジですか……。
しかも、小説やマンガによくあるような、神からもらった加護とかチートはない。ごくごく普通の、たんなる子どもとして生まれ変わってしまったのだ。どうしろっていうんだ、本当に。
まずは、情報が欲しい。うかつに行動して取り返しのつかないことになったら、手のうちようがないからだ。
現時点でわかったことといえば、アルフォンスという少年として目覚めたのは、ベルンハルト王国という国にある下町の一角らしいということ。そして、アルフォンス君は親戚である老夫婦と三人暮らしをしているそうだ。……以上、情報終わり。壊滅的だな。
俺だって、もっと情報は欲しかったよ? でもさ、いかにも優しそうなおじいさんとおばあさんに、「アレどうなってんの、これどうなってんの?」とか、矢継ぎ早に質問し続けたらかえって怪しまれるでしょ? あれ? 私たちの知っているアルフォンスとは違うって。
そういったわけで、極めて慎重に言葉と態度を選びながら、必要最低限の問いかけをしたわけだ。必要最低限過ぎたと思わなくもないけどさ。
あとはもう、実際に自分の足であちこちを歩き、実際に見て、いろんなことを確認しようじゃないかと考えた俺は、老夫婦に見送られながら、遊びに出かけてくるのを装って散策に出かけることに決めたのだった。
***
下町とはいえ、町中はレンガや石作りの建物が目立ち、意外と清潔さが保たれている。行き交う人々の服装も簡素とはいえ小綺麗だ。
この分なら、安心して出歩くことができるだろう。思いに任せて足を運んでいた、その矢先だった。
「ちょっとちょっと、アルフォンス。どこに行こうっていうんだい」
やけに恰幅の良いご婦人が、慌てたように呼び止める声が耳に届く。そして行き先を遮るようにして立ちはだかって続けるのだった。
「いつも言ってるじゃない。あっちの方は危ないから行っちゃダメだって」
「危ない?」
アルフォンスになってからは初耳なので、問い返す。
「あんたはまだ子どもだからわからないだろうけどね。あっちの方には悪い大人たちがたくさん住んでいるんだ」
……悪い大人がたくさん? いわゆるスラムに近い環境なのだろうか。ということは、富裕層の暮らす住宅街だってあるのかもしれない。
思考を巡らせている表情を、神妙な態度と受け取ったらしいご婦人は、諭すような口調で俺に語りかける。
「そうだ。どうせ遊ぶなら教会に行ってごらん。精霊神様にお祈りを捧げたと知ったら、おじいちゃんやおばあちゃんも喜ぶよ」
確かに、この世界における宗教観を知っておくのは重要かもしれない。恰幅の良いご婦人に道のりを尋ねた俺は、お礼を言ってからきびすを返し、精霊神を信仰しているという教会を目指すことにした。
そして、これが、最初の行動としては当たりくじを引く結果となるのだった。
***
精霊神を信仰するという教会は、様々な施設を運営している。
たとえば孤児院や修道院。そして日本でいう寺子屋のような教育施設だ。
この教育施設、教会が運営していることもあり、老若男女問わず、誰でも学べるようで、俺はお祈りもそこそこに切り上げると、神父にお願いして、教育施設に案内してもらった。
そしてしばらくの間、毎日のように通い詰め、こちらの世界の知識を学ぶことになる。
もちろん、教会が運営する施設なので、精霊神を信じなさいという教えが根底にあるんだけど、それでも、この教育施設は十分すぎる役割を果たしてくれた。
たとえば、この世界の成り立ち。まあ、教会が語る世界観なので、もちろん、精霊神が世界を創造したのですよという大前提はあるものの、ターニングポイントとなった出来事はしっかりと教えてくれる。
それがおよそ三〇〇年前。
大陸には魔物と邪龍が出現し、人々は血の涙を流しては救いを求めた。
そんな中、精霊神の導きにより、九人の英雄が現れる。リーダー格であるヘルムートは仲間たちとともに邪龍を打ち倒し、精霊神の導きにより、この地に王国を築かれた。精霊神の導きによって、統一歴が始まり、ベルンハルト王国が誕生したのだった。
まあ、ね? いちいち「精霊神の導き」が入ってしまうのは、教会の教えだからどうしようもないんですよ。こちらで話半分にして納得しないといけないんだな。
とはいえ、これで、現在もベルンハルト十三世のもとで封建制度が続いていることがわかったのである。そうなんだろうなあと思っいたけど、「民主主義? なにそれ?」という世界らしい。
あ、あと、文字の読み書きもここで教わった。これについては以前のアルフォンス君も苦手だったみたいだ。言語を喋ることができても、看板とかに何が書いてあるかとかはわからなかったので、これは大いに助かった。
しかしまあ、国民全体の識字率はといえば、これまた微妙らしい。どうにも、学校が存在していないのが影響しているようだ。
じゃあ、子どもたちはなにをしているかっていえば、ほとんどが家の手伝いもしくは、労働力として使われている。アルフォンス君がまだ学べるだけ恵まれている環境なんだなと痛感するね。
健やかに育つよう、あの老夫婦がいろいろと気遣ってくれているのだろう。その心遣いに感謝を覚えつつ、俺は一年近くもの間、雨の日も風の日も、足繁く教会と教育施設に通い詰めた。
おかげで周りからは、「小さいのに精霊神様にお祈りを続けるなんて、あなたは偉いわねえ」と勘違いされつつあるけれど、まあ、些細な話だ。
とはいえ、学びもある程度進んでしまえば、次の段階に進みたくなるという欲求が芽生えてくる。見た目は子どもとはいえ、中身はオッサンなのだ。
この国の内政について、法律に税制度、あるいは他国との外交状況などなど。ネットもテレビも新聞もない中で、これらの情報を知るのは難しい。
教会側も、それらについては「俗世のこと」と切り捨ててしまっているようで、教える立場にないスタンスを取っている。はてさてどうしたものか。
心優しい老夫婦に政治経済について質問を投げかけたところで、アルフォンスがどうにかなってしまったと訝しい思いをさせるだろうしなあ。
で、俺は考えたのだ。大人たちが集まって、自由な会話を楽しむような場所がないかって。そこに行けば、いろいろな情報を入手できるはずである。
思考を巡らせ、俺は一つの結論にたどり着いた。そういった場所があることにはある。しかし、この子どもの身体で立ち入ることは難しいだろう。
(……行くだけ行ってみるか)
沸き起こる知識欲には抗えず、俺は酒場のある方向へと足を運び、そして最初の転換点を迎えることとなった。
ゲラルト率いる、傭兵団『暁の狼』との出会いがそれである。
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