25.エレオノーラとアルフォンス
ベルンハルト王国でも有数の穀倉地帯であるアーベントラント領。歴代の領主を補佐する役目を担うのはヘッセン家当主の務めだった。
下級貴族であるヘッセン家が、名門貴族が名を連ねるアーベントラント領主の補佐官を担うのには理由がある。
一つ目はアーベントラントの最大都市デンマーブルクを拠点とし、豊かな財を築いてきたこと。二つ目は歴代の当主が尽力した結果、領内に独自の人脈と情報網を形成できたこと。
当然、これらの事柄は無視できるものではなく、ヘッセン家は長年に渡り、領主の補佐を過不足なく勤めてきたのだった。
十九年前、ヘッセン家当主ルードルフの長女としてエレオノーラは生を受ける。幼少期から好奇心にあふれたエレオノーラは、ルードルフについて回り、社交的な父の仕事ぶりを見ながら成長していく。
立場など関係なく領民と笑顔で接し、嘆願は親身に受け止める。領民を愛し慈しむ父の姿は、いつしか自分の理想像として映るようになった。
さすがに領主邸までついていくことは許されなかったが、いつしかエレオノーラは、自分も大きくなったら父と同じようになりたいと願望をいだくようになる。
何不自由なく、恵まれた環境に身を置いていたエレオノーラだが、そんな暮らしは突如として終焉を迎えた。
エレオノーラが九歳の時、アーベントラントが大凶作に見舞われたのである。突然襲いかかった災厄だったが、父ルードルフは動じることなく、この大困難を乗り越えるための助言を領主に進言するのだった。
しかしながら、当時の領主は動揺する。平時においては決して凡庸ではない人物であったのに、この困難に立ち向かう精神を持ち合わせていなかったのだ。
国に納める税対策のため、領民が蓄えている食糧などを文字通り一つも残さず徴収した領主は、それ以降もルードルフの諫言に耳を貸すことなく、悪政に手を染めていく。
結果として、この領主が離任するまでの間、アーベントラントの財政状況は悪化、度重なる災害も相まって、貧困の一途を辿っていくことになる。
以降、新たに着任する領主たちの無為無策も手伝い、豊かな穀倉地帯はみるみるうちに荒廃していく。わずか十年足らずの間、見る影もなくなっていく故郷の姿にエレオノーラは心を痛めたのだった。
聡明な彼女にしてみれば、アーベントラントの凋落は無責任な領主によるものとしか思えないのだ。父の諫言を受け入れ、領民と向き合っていれば、こんな状況になどなりはしなかったのに……。
さらに彼女の自尊心を傷つけたのは、王都でのアーベントラントの呼称である。
かつては名門貴族の赴任先として知られ、その名声を高める場所としても有名だったアーベントラントが、いまや『貴族の墓場』として周知されているのだ。
故郷、そして領民を愛するエレオノーラにとって、これほどの屈辱はなく、やがて彼女は着任する領主と、それを命じる王族に対し、心からの軽蔑と怒りを抱くようになる。
長くて一年、短くて三ヶ月――政敵として国を追われた貴族が領主として着任する中、それを懸命に支えてきた父ルードルフだったが、長年の心労がたたったのか、ついに病床に倒れてしまう。エレオノーラ十九歳の時だった。
父が倒れたことを知った当時の領主は、見舞いの使者すら寄越さず、逃げ帰るように王都へ戻っていった。エレオノーラが貴族に対して絶望したのはこの時だっただろう。
しかしながら、今までと同じように、入れ替わるように新たな領主がやってくることは決まっているのである。父はもう激務に耐えうる身体ではない。であれば、いつしか抱いていた願望のように、自分が代わりを務めるしかない。
(女として侮られることがないよう、外見から変えていかないと……)
幼い頃より父について回っていたため、動きやすい衣服を好んでいたエレオノーラは、これを機にドレスをまとうことを止めた。見た目、礼服に近いパンツルックなら、多少なりとも格好がつくはずである。
なまじ女を意識させるような衣装であれば、新たな領主から「伽にこい」など言われかねない。想像するだけで鳥肌が立つ思いに囚われながら、エレオノーラのもとに新たな情報が届けられた。
今度の領主は国王の庶子、第七王子アルフォンスであり、年齢はわずか十代半ばらしい。
エレオノーラはますます暗澹たる気持ちに陥った。右も左もわからない『坊や』が、いよいよ領主になるらしい。国はついにアーベントラントを見放したのだろうか……。
まあいい。私一人だけでも、アーベントラントの復興を遂げてみせる。
「そして、子供の頃と同じように、領民たちと笑顔で接することができる、そんな未来を描けたら……」
路上で気力のかけらもなく倒れこむ大人、物乞いをする子供たちを見ながら、エレオノーラは決意を強くし、そして、おそらくは統治に無関心であろう第七王子を出迎えることになる。
***
アルフォンスに対するエレオノーラの第一印象は『抜け目のない少年』だった。
多少は民心を掌握する重要性を認識しているようで、身銭を切ってまで施しを行うと聞かされた時は意外さに打たれたものである。
しかしながら、彼女に根付いた不信感は強い。
(これもどうせ見せかけに決まっている。この少年もすぐに手のひらを返し、領民たちを裏切るに違いない)
だからこそ、常識外れともいえる方針を打ち出された時、エレオノーラは驚きを隠せなかった。
領主邸を救貧院に据える。お抱えの兵士たちを動員し、公衆浴場などを建設する。領民の賦役を廃止し、労働の対価に賃金を支払う――。
着任するまでに考えていたのだろうか、少年が提案する一つ一つは非常識かつ新鮮な考えで、これまでの無気力な領主たちとは一線を画すものばかりなのだ。
彼女は反発してしまう。上手くいくはずがない、と。なぜなら。
(こんなことですべてが上手くいくのなら、今までの領主たちはなんだったの? 病に倒れた父がばかみたいじゃない)
そして、このアルフォンスという少年は、あまつさえこんなことを言い出すのだ。
「どうかな、エレオノーラ殿。無謀は承知の上だが、領民のためだ。力を貸していただけないだろうか?」
彼自身が、常識に囚われないやり方で統治を行おうとしていることに、エレオノーラは気付かされたのである。それは貴族に対し絶望していた彼女の印象を、若干ながら変化させた。
「……領民のためであるのなら、やむを得ません。上手くいくとは限りませんし、非常識の感が拭いきれませんが、殿下のお考えに従います」
声に出しながら、それでもエレオノーラはアルフォンスの思うとおり、事が運ばないことを願った。第七王子に恨みはないが、所詮はこの少年も、ここまで事態を悪化させた王侯貴族たちの同類に決まっている。
いつかは化けの皮が剥がれるだろう――だがしかし、そんな思いは見事に裏切られることになる。
***
着任後、しばらくが経過し、アルフォンスに対する人々の反応は、概ね好印象であった。
誰に対しても物腰が丁寧、そして身分の違いなどで差別しない。特に身の回りの世話を担当する執事やメイドたちは、これまでの領主たちの粗暴な振る舞いに接していただけ、この少年に対する評価を高めていた。
施しを受けていた領民たちの領主を見る目も変わるのがわかる。「若いのにたいしたものだ」といった声は、当然ながらエレオノーラの耳にも届くのだった。
しかしながら、どうしても彼女はそれを信じることができなかった。十年近く裏切られ続けてきた、そして父を病床のみに追いやった元凶なのだ。いずれはぼろが出るに決まっている……。
そんな思いを抱いている日。領内でも悪名高き、二つの賊を領主自ら討伐しにいくと知らされたエレオノーラは、八割の成功と二割の失敗をない交ぜにした心境でアルフォンスを見送った。前者は領民のため、後者は自分の心を満足させるためである。
結果、賊討伐という任務を見事に果たし、アルフォンスたちは凱旋した。歓喜の声で出迎える領民たちを眺めながら、本来あるべき姿を思い起こし、エレオノーラは赤面する。失敗を願うなど、自分としたことがみっともない。この少年に対して合わす顔がないと。
兵たちをいたわるための酒宴の用意だけ済ませ、今日は引き返そうと考えていた彼女だったが、執事に呼び止められたことで予定の変更を余儀無くされる。
「ご帰宅なさった領主様のご容態が思わしくなく……。どうかご様子を見てきてくださいませんでしょうか?」
後ろを見れば、執事だけでなくメイドたちも一様に心配そうな表情を浮かべている。仕方ないと覚悟を決めたエレオノーラは執事室に向かい、そして灯りに照らされた少年の顔を見て、心から驚いた。
それは年相応の力強さやみずみずしさとはかけ離れた、酷く疲れたもので、血色は悪く、思い詰めた瞳は視線が定まっていない。
自分はこれを見たことがある。
既視感を覚え、脳裏を巡らせると、やがてたどり着いたのは、病床にある父の顔だった。心労と過労が重なり倒れてしまった、愛する父。
それに気付いた瞬間、彼女は思いがけないことを口にする。
「何か、お悩みなのですか?」
いたわりの言葉などかけるつもりはなかった。様子を見る、ただそれだけのつもりだった。
しかしながら、この時のエレオノーラは、この一瞬、心の底からアルフォンスを思い、その身を心配したのである。
少年から返ってくるのは苦悩に満ちた言葉の数々だった。それは悪漢である賊に対しても、人間としての尊厳を守ってやれなかった後悔と懺悔の微粒子が含まれており、それを聞いたエレオノーラは雷に打たれたような強い衝撃を覚えたのである。
同時に彼女は気付かされた。今の今まで、この少年に抱いてきた不信感が、いかに的を外れていたものか。
そう思ったとき、エレオノーラは心の底から自分自身を恥ずかしく思った。なんて矮小でつまらないこだわりを抱いていたのだろうか、と。
しかし、それを悟られるわけにはいかない。急に態度を変えては、この少年のほうこそ不信感を抱くに違いないのだ。
だからこそ、これからも努めて冷静に振る舞う必要がある。
「殿下がどうお考えでも、結果がどうであろうと、民たちは喜んでおります」
精一杯の励ましは、この少年の励みになっただろうか? そうであればいいと願いつつ、エレオノーラはいつもと変わらぬうやうやしさで、執務室をあとにした。




