15.レオンハルトとアルフォンス
ベルンハルト王国において名門と知られる家柄はいくつかあるが、中でもブライトクロイツ家は突出した存在である。
王国の南方、海に面した広大なグライフェン領を直轄とし、海運業と交易によって富を蓄え、豊かな資本――金と人材――を国内へと供給してきた。
そしてそれらの富は、もちろん、ブライトクロイツ家自体を強くするためにも、惜しむことなく湯水のように使われ続ける。
私兵や武力の強化、あるいは権力を維持、または拡大させるための道具として、金銭はこれ以上ない効力を発揮するのだ。
建国の祖ヘルムートの時には、一家臣にしか過ぎなかったブライトクロイツ家が、いまでは当主が必ず公爵の位を帯びるのはそういった事情が存在する。もはやブライトクロイツ家の経済力なくしては、ベルンハルト王国は成立しないのだ。
レオンハルトは前当主アルベルトの庶子として生を受ける。ベルンハルト十三世と同じく猟色で知られたアルベルトは、王国中の女性と関係を持ち、子を残したという逸話が残っているが、レオンハルトはその中の一人というわけであった。
南方にある少数民族特有の灰色をした頭髪に、母親譲りである切れ長の瞳と端整な顔立ち。そして何より、彼は天賦とも思える才覚と、それをおごらない聡明さを持ち合わせていた。
庶子ながら、才能豊かなレオンハルトの存在をアルベルトは貴重なものと思い、やがて嫡子を補佐させるため、ブライトクロイツ家に招き入れることを決意する。レオンハルト十六歳の時である。
アルベルトには三人の嫡子がいた。いずれも男児で、ゆくゆくは家督を継ぐことになる。
しかしながら、アルベルトには不安が残る。権謀術数がうごめく宮中において、巧みなまでに権力をコントロールしてきた彼にしてみれば、息子たちの能力は物足りないものがある。
謀略を前に、経験不足の息子たちが手玉に取られるのは仕方ない。だがしかし、それが引き金となってブライトクロイツ家が没落するのは耐えられない屈辱である。
ベルンハルト王国の貴族たちは、治める領地の名称を自らの名前につけて名乗ることが常識だ。よほどの家柄――王族であるベルンハルト家のような――でなければ、家名を名乗らないのである。
グライフェンのような大都市を治めながら、それでもアルベルトを始めとする歴代当主がブライトクロイツの家名を名乗り続けるのは、名門が名門たる自負を持っているからこそなのだ。
だからこそ、アルベルトは家を存続させるため、あらゆる布石を用意することにした。レオンハルトを招き入れたのもその一環である。
当然ながら、嫡子と庶子では折り合いは良くない。加えて彼は少数民族の子である。名門貴族の直系である兄弟にしてみれば、唾棄すべき棄民にしかすぎなかった。
嫡男たちの思考をアルベルトは危惧したが、自分が仲介すれば、いずれは解決できる問題だろうと考え、事あるごとに面倒を見ては、仲を取り持つよう努めたのである。
しかし、そんなささやかな努力が水泡に帰す出来事が発生する。アルベルトの逝去である。
死因自体は偶然の事故死に過ぎない。海上運送の視察中、突如、船が荒波に飲まれ、そのまま帰らぬ人となってしまったのだ。
当然のことながら、ブライトクロイツ家は混乱した。当主亡き後、どうやって家を存続させるべきか。
だがしかし、不測の事態を予測していたのか、アルベルトが残してあった遺言書が見つかることで事態は打開される。
長男がそのまま当主の座を継ぎ、弟たちは兄をもり立てるようにという遺言は守られ、ブライトクロイツ家は危機を脱した。
――ただひとつ、レオンハルトを補佐役につけることという一文だけが無視されることになったが。
***
かくして、レオンハルト・フォン・ブライトクロイツは不遇の日々を送ることとなる。
無位無冠、これといった役目もなく、鍛錬に打ち込む日々。いずれは日の目を浴びる機会が訪れるだろうと信じ続け、そして、気がつけば四年の歳月が経過していた。
(自分は何も成さないまま、緩慢に死を迎えるのかもしれない……)
二十歳になろうという若者が、もはや諦めの境地で無為の時を過ごしているのである。
宮中では日夜華やかなパーティが繰り広げられるものの、気分転換がてら、そこへ足を伸ばす気にはなれない。平民出身の彼は国民の窮状を知っており、困窮の代償となっている贅沢に対しては不審と嫌悪感を抱く一方なのである。
ブライトクロイツ家として、民衆に対し、手を差し伸べることはできないか? 兄に対しての諫言は、この数年間、ことごとく無視された。貴族社会に生きてきた兄弟は聞く耳を持たないだろうと知りつつも、それでもレオンハルトはもがき続ける。
民衆あっての名門ブライトクロイツ家であり、ベルンハルト王国なのだ。それを忘却の彼方に追いやってしまっては、待ち受けるのは破滅しかない。
王国の現状を半ば絶望していたレオンハルトだったが、ここで転機が訪れる。
ある日のこと。宮中の大広間に集められた王侯貴族たちの前で、一人の少年が、ベルンハルト十三世の第七王子であると紹介されたのである。
王族とは異なる黒色の髪と瞳。柔和な顔つきはやや緊張しているようにも見えて、良くも悪くも王族らしく見えない。
アルフォンスという存在を初めて知ったレオンハルトの印象はそれであり、次に国王の庶子であるということを知るやいなや、共感と共に同情を覚えたものである。
(恐らく、私と同じように、アルフォンス殿下も苦労なされるだろう)
レオンハルトの考えは正しかった。アルフォンスは他の王子たちから徹底的に忌避され、そして王子たちを取り巻く貴族たちからも敬遠されたのである。
わずか十二歳の子どもに対し、それはあまりにも酷な仕打ちに思えた。事情も飲み込めないまま、恐らく宮中に招かれた少年に対し、なんとむごいことをする人々なのか。
レオンハルトは貴族たちを心から軽蔑し、アルフォンスに対してはますます同情の念を深め、何かあったら身を挺してお守りしようと心に秘め、以来、アルフォンスを気にかけるようになったのだ。
そして、第七王子となった少年を観察し、程なくした頃、レオンハルトはアルフォンスに対しての考えを改めることとなる。
(……もしや、この少年は、自ら望んで王侯貴族たちと距離を取っているのではないだろうか?)
貴族たちに気に入ってもらうためにはいくつか手段があるが、もっとも手っ取り早いのは低姿勢で臨み、媚びへつらい、仲間に入れてもらえるように懇願することである。
嫌われているのであれば、なおさらのこと、その輪に入れてもらえるよう努力しなければならない。権謀術数渦巻く宮中で生き残るというのは、とどのつまり、そういうことをしなければならないのだ。
にも関わらず、この少年はそのような真似をしない。いや、そういった知識が皆無なのか?
レオンハルトは一瞬考えたものの、その堂々たる振る舞いから、卑しさのかけらも感じ取ることができなかったのだ。
何より、どんなに陰口をたたかれたところで、気にする素振りすら見せないのである。内心ではどう思っているかわからないが、弱冠十二歳でできる芸当ではない。
まるで成熟した大人のような、性根の強さを秘めているように思えるのだ。
やがてレオンハルトは、この少年についてもっと知りたいと考えるようになる。
宮中にある大書庫。読書のため、アルフォンスが毎日のように足繁く通っているということを知ったレオンハルトは、無礼を承知で後をつけることにした。
席に着き、歴史書をめくる第七王子を前に、偶然を装い話しかける。
「殿下。貴重なお時間を邪魔しても申し訳ありません。私はレオンハルト・フォン・ブライトクロイツと申します。ご挨拶をと思い、お声をかけさせていただきました」
ゆっくりと顔を上げたアルフォンスは瞳を何度か瞬きさせ、そして静かに微笑み返す。
「挨拶には及ばないよ、レオンハルト殿。ここは本を読む場所だ。俺のことは気にせず、読書を楽しまれるといい」
そこまで言って、アルフォンスは我に返ったように口元を押さえる。
「失礼した。王子として迎えられたにも関わらず、言葉遣いや作法には疎いままなのだ。お恥ずかしい限り……」
変に肩肘を張ることなく、あくまで自然に振る舞うアルフォンスの姿に、レオンハルトは好感を抱いた。
「殿下。どうかお気になさいませんよう。少なくとも私はそのようなことは気にいたしませぬ」
「そう言っていただけるとありがたい。……貴殿は、どのような書物を求めにやってこられたのかな?」
「はっ。来たるべき時に備え、兵法を学ぼうと伺った次第で」
「それはいい。私のことは気にせず、勉学に励まれよ」
「ありがたきお言葉、恐縮でございます。……ところで殿下」
「……?」
「貴族の皆様が催される宴席などで、殿下のお姿をお目にかけることがございません。もしや、殿下は賑やかな場はお嫌いなのですか?」
せっかくの機会である。気になっていたことを聞いてみようと思い立ったレオンハルトだが、いささか礼を逸していたかも知れないと、問い尋ねた直後に後悔の念を抱いた。
自ら望んで王侯貴族たちと距離を取っている、それはもしかすると自分の思い込みで、この少年にはそうしたくともそうできない、人には言えない事情があるのかもと考えたのだ。
しかし、そんなレオンハルトの思いをよそに、眼前の少年は苦笑を浮かべながら、さらりと応じ返す。
「私は平民出身ゆえ、あのような賑やかな場に近づいただけでも足がすくんでしまうのだ。それに、参列する諸侯も、私のような下賎の民が同じ場にいることを快く思わないだろう」
「そのようなことは……」
「いや、いいのだ、レオンハルト殿。事実だからな。それに……」
そこまで言いかけると、アルフォンスは口をつぐんだ。余計なことを話すところだったと言いたげに、頭を左右に振り、話を打ち切るように再び本の虫と化す。レオンハルトとしては話しかけたいが、話しかけにくいという状況だ。
(仕方ない。時間を潰すか)
適当な本を手に取り、時折、アルフォンスのほうを見ながら、ページをめくっていく。そして、おそらく自然に出た仕草なのだろう。大きく伸びをする第七王子の姿を視界に捉えたレオンハルトは、意を決して、再度、アルフォンスに声をかけた。
「殿下」
「……おお、レオンハルト殿。申し訳ない。またお恥ずかしいところをお目にかけてしまった」
「先ほども申しましたが、どうかお気になさいませんよう。ところで殿下」
「……?」
声をかけてからレオンハルトは我に返った。話しかけたまでは良かったが、肝心の話題については何も考えていなかったのである。
聡明な若者には珍しく、レオンハルトは迷った。そして、散々迷いに迷った挙げ句、最悪なことをアルフォンスに尋ねたのだった。
「殿下はこの国の現状について、どうお考えでしょうか?」
瞬間、アルフォンスの穏やかな表情が硬直した。
「ミヒャエル殿下から、そのように聞いてくるよう指示されたかな? それとも宰相殿か」
少年が発した言葉の意味を瞬時に理解し、レオンハルトは自らの軽挙さを恥じた。
「違うのです、殿下。誰かに指示されたわけではありません。兵を潜ませてもおりません。私個人が憂慮していることをどうお考えなのか、ご意見を賜りたく」
恐らくこの少年は、わずかでも失言があれば逮捕や監禁、最悪、謀殺されると思ったのだろう。一瞬でもそう思わせたことをレオンハルトは悔やみ、慌てて弁解したのだった。
やがてアルフォンスは大きく息を吐き、思い直したように口を開いた。
「私ごときが口を挟んでいいかはわからないが、民衆あっての王国だ。それを踏まえるなら、答えは明白だろう」
民衆あっての王国。それはレオンハルト自身が抱いていた考えであり、他の王侯貴族たちから誰一人として聞くことがなかった言葉だった。
興奮する気持ちを抑えつつも、半ば身を乗り出してレオンハルトは少年を促す。
「と、仰いますと?」
「重税を始め、治安の悪化などで民は困窮する一方だ。翻って宮中内では贅沢な暮らしがまかり通っている。連日催されるきらびやかな夜会を見れば、おわかりになるだろう。このままでは国は破綻するだろうな」
自虐的に笑い、アルフォンスは続ける。
「もっとも、庶子であり子どもでもある私の言葉など誰も耳を貸さないだろうね。なんとかしてやりたいが、いかんせん、そこまでの権力もないし……」
民衆をなんとかしてやりたい、それは貴族社会において生きてきたレオンハルトに取って新鮮な響きに聞こえた。
何より、このアルフォンスという少年は、十二歳という年齢にそぐわない見識を持っている。自分が同年代の頃は、税や治安など考えることすらなかったのだ。
――この少年のことをより深く知りたい。
短い会話の中、レオンハルトの中で芽生えた欲求はみるみるうちに大きなものとなっていった。
「アルフォンス殿下」
「……?」
「よろしければ、これからも書庫で同席するお許しをいただけませんでしょうか? 今後とも殿下のお話を伺いたく存じます」
うやうやしく頭を下げるレオンハルトに、アルフォンスは困惑の表情を浮かべ、それから黒い頭髪をかき回した。
「私の話など、面白くないと思うが……」
「そのようなことはありません。どうか、いろいろとご教授いただければと」
「ご教授、って……」
少年めいた戸惑いの声がレオンハルトの耳に届く。やがて、肩をすくめたアルフォンスは諦めたように続けるのだった。
「わかった、レオンハルト殿。教授云々はさておくとして、一緒に読書を楽しむのであれば、私としても仲間が増えて嬉しい」
「ありがたき幸せ。それから殿下、今後、私のことはどうぞレオンハルトとお呼びくださいませ」
……もしかすると、自分は近い将来、主君と仰ぐべき人を目の前にしているのかもしれない。
十二歳の少年相手に、錯覚めいた考えが脳裏に閃いたものの、だがしかし、レオンハルトにとってそれは希望に満ちた未来予想図になりつつあるのだった。




