1.国境にて(前編)
晴れた空、穏やかなに降り注ぐ陽光、広々とした草原に咲き誇る花々。
のんびりと読書にいそしみたい、そんな春の一日をさらに彩ってくれるのは、悲しいかな、大変不本意なことに風に乗って伝わる敵兵の軍靴である。
「……やれやれ、絶好のピクニック日和だったんだけどなあ」
誰に言うまでもなく呟いては、黒髪をかき回す。まったく、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
木陰での読書もそこそこに、俺はといえば、両手に広げた戦術論の記述よりも、流れゆく雲を見上げては、深くため息を漏らすのだった。
(それもこれも、あの長兄殿下がやらかしたせいなんだけど)
忌み嫌っている身内の不始末に、どうして自分がかり出されるのかという不満を抱きながら、同時に俺はこうも考えた。
――あるいは、本来のアルフォンス本人であれば、目前に控えた戦いを前に心を奮い立たせていたのだろうか?
いやいやと頭を左右に振る。いま、ここにいるアルフォンスという少年は、日本で会社員勤めをしていた俺自身なのだ。
そう。日本で生まれ育ったからこそ、平和がいかに尊いものか重々承知しているのだ。平和を愛し、平和に愛された、この俺である。どこぞの異世界かわからないけど、紛争やら戦争やら巻き込まれるのはゴメンこうむりたいっ。
「なんだい、坊や。これから初陣だっていうのに、浮かない顔だな」
坊やと呼ぶ声の先には、いかつい顔をした人物が不敵な笑みをたたえて佇んでいる。年齢は日本で会社員勤めをしていた頃の俺と同じぐらいだろうか。
赤褐色の短い頭髪に、隆々とした体躯の壮年の男で、名前はゲラルトといい、傭兵団『暁の狼』を率いる団長だ。
「実にいかんな、坊や。戦ってのは楽しんでなんぼだ。ましてや勝ちが決まり切っている戦なら、なおさらだろう」
笑い声とともにゲラルトは言い放ち、平和主義者である俺の背中を叩いた。その力の強さに咳き込みながら、俺は尋ねる。
「勝てると思っているのかい、団長?」
「敵さんの兵力が二〇〇〇、こっちは倍の四〇〇〇だ。数の上なら、どうやったって勝てる戦だ。そうだろう?」
まさにそれこそが懸念事項なんだけどなと心の中で思いつつも、声に出さず、俺は草原の遙か遠くへと眼差しを向けた。斥候により、ラインフェルト双鷲帝国が侵攻のための陣を国境付近に築いていることが報告されているのだ。
ここ半世紀の間、隣国の小国をことごとく攻め滅ぼし、戦い慣れした兵を率いる隣国を相手に、こちらは治世三○○年の間、戦争とはほど遠い日々を送ってきたのである。
そして、経験不足の兵たちを率いるのは、あの敬愛すべき第一王子……尊敬してやまない長兄殿下ミヒャエルなのだ。その尊大な態度と表情を脳裏に思い出しながら、俺は再び深いため息を吐いた。不安がないというほうがおかしい。
そもそも、だ。
あのバカ……じゃなかった、兄上殿下が軽率な行動にでなければ、こんな争いは起きなかったのである。
話は数日前までさかのぼる。
配下の手勢を率いたミヒャエルが、国境警備と称し、ラインフェルト双鷲帝国との国境付近にある村々に対し、略奪行為を働いて回ったのだ。
常識や倫理観に劣る殿下にとっては狩りを楽しむような軽い感覚であったのかもしれない。
しかしながら、これを帝国が見過ごすはずもなく、大勢を率いてこれを迎撃しようと打って出たのだった。
驚いたミヒャエルは、慌てて自国であるベルンハルト王国に引き返すと、父親であり国王であるベルンハルト十三世に、文字通り泣きついて救援を要請。
長兄派閥として知られる第四王子コンラートと、そしてなぜかミヒャエルから嫌悪されている第七王子のアルフォンス、つまり俺が援軍として派遣されることになったのだった。
いやはや、こんな名誉ある立場をあずかるとは、感涙で溺れてしまいそうになるじゃないか。
まあ、ぶっちゃけてしまうと、「どうして俺が?」と思わなくもないのだが。
病床にある国王陛下としては、庶子として不自由な思いをさせた息子に、手柄を立てさせる機会を与えたかったのかもしれないと思うと合点がいく。
とはいえ。とはいえ、だ。
元いた世界において、戦争や紛争などというものは忌むべきものだと理解しているし、世界各地で勃発している悲惨な状況を伝える映像には心を痛めてしかたない。率先して争いごとを起こしたがる連中の気が知れないわけで。
二度目の人生が始まった以上、こちらでも平和に、かつ、平穏な日々を送りたいと願っていた身の上にしてみれば、まったくもって心外以外の何物でもないのである。
そんな俺が国境紛争とやらで、これから二〇〇〇の敵兵と戦をするのだという。まったくもって現実は厳しいということを教えられるものだ。ため息の四つや五つ漏らしたい心境なのもわかってもらえるだろう。
……途方に暮れる中、ゲラルトが口を開き、俺は意識を現実に引き戻した。
「坊やが不安なら、この戦を完璧な勝利に収める方法があるんだがな」
恐らく現実味のない作戦なのだろうが、一応、聞くだけ聞いてみる。
「つまりだ。おれの傭兵団が先陣を切って敵兵をなぎ倒していく。そうなれば、後に控える兵士たちの士気も上がる。自分たちだってと奮起して、実力以上の力を発揮するだろうよ」
「二〇〇の傭兵団で二〇〇〇の敵兵に突っ込むとか、自暴自棄の極みだと思うけどなあ」
「おれなら片手で五〇〇の兵を屠れるぞ? 配下の連中だって一人二桁は余裕だろう」
明らかな大言壮語なのだが、ゲラルトはいたって本気らしい。なんなの? この世界の人たち怖すぎなんですけどっ。
「魅力的な提案だけど、まあ無理だろうね。先陣は武人の誉れなんだろう? であれば、あの兄上殿下が譲るはずがないさ」
それならそれで一向に構わない。経験不足は俺も同じなのだ。後方に控えるのも悪くはない。
そりゃあ、手柄を立てる機会は少ないだろうけどさ、痛い目に遭う危険も少ないじゃないか。人命より尊いものはないのだ。ありがたいと思っておこう、うん。
かいつまんでそんなことを言うと、ゲラルトは眉を微妙な角度に動かした。
「つまらんなあ、おい。坊やに武芸の手ほどきをしたのは、こういう時に活躍してもらうためだったんだぞ?」
「いやいやいや。食料調達で鹿やら猪やらを狩るために教わっていただけだろ? 争いごとのためじゃないよ」
「ますますつまらん。王子になって以来、いささか常識的になったんじゃないか、坊や?」
「ゲラルト殿。アルフォンス殿下に対し、無礼な物言いは止めてもらおうか」
割って入ったのは、二メートルになんなんとする長身を誇る美丈夫だ。切れ長の瞳と、後ろで結わえた灰色の長髪が印象的な若者で、名前はレオンハルト・フォン・ブライトクロイツという。
王国で随一の力量を誇りながら、かつて迫害されていた少数民族の出自というだけで、忌避され続けていたところを、俺が声をかけ、補佐役になってもらっている。
しわひとつない紺色の軍服に身を包んだレオンハルトは、端正な顔立ちながらも、いかにも武人の風格を漂わせ、歴戦の猛者を相手に一歩も譲る気配がない。
「貴殿と殿下の間に誼があることは承知している。しかし、誼があるからといえども、礼を逸する理由にはならん。ましてお仕えする主君であれば、なおさらではないか」
「誤解してないでもらおうか、レオンハルト殿。おれはあくまで雇われの身。坊やとは契約関係にあって、主従の関係ではないのだよ」
「だからといって、殿下を坊やなどと、軽々しくお呼びする行為は控えていただきたいものだな。他の者に示しがつかん」
「何を言うかと思えば。直接、率いる兵が少ないから、おれたちを頼ってきたんだろうが」
「はいはい、二人ともそこまで」
重苦しい雰囲気を割って入ると、俺は再び頭髪をかき回した。
「レオンハルトの言うこともわかる。けど、妙に礼儀正しい団長っていうのも、むずがゆくなるからね。俺としてはいままで通りで構わないさ」
「しかし……」
「団長も団長で、親しい人がいない限り、俺のことを坊やと呼ばないでしょ?」
「その通り。いやはや、アルフォンス殿下はよくわかってらっしゃる」
わざとらしいほどにうやうやしく頭を下げるゲラルト。なおも不満の微粒子を漂わせるレオンハルトに対し、俺は話題を転じるように問い尋ねた。
「それで? 俺を探しにきたんじゃなかったのか、レオンハルト」
「これは失礼を。そうなのです、ミヒャエル殿下がお呼びでして、至急天幕まで来るように、と……」
「あれほど、顔を見たくもないと言っていたのにな。いったい何の用だろう?」
「この戦いにおける方針を決められたとか。とにかく、お急ぎください」
無感動に応じながら本を閉じた俺は、その場に立ち上がり、スラックスについた草を手で払った。あの長兄殿下が方針をお決めになられたのだ。いずれにせよ明るい話題でないことは確かだろう。
「さてさて、どんな無理難題を押しつけられるのかな?」
自虐的に呟きながら歩を進める。厄介かつ損な役回りじゃなければいいんだけどなと、そんなことを考えていたのだが。
悲しいかな、待っていたのは最悪の斜め上をいく現実だった。
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お久しぶりです、タライ和治です!
新連載はファンタジー戦記ものとなっております!
しばらくの間、連続更新してまいりますので、お付き合いのほどよろしくお願いいたします!
続きは12時に!