翻訳と出版
シーン:翻訳と出版
知識は力だ。
それを誰よりも信じていたのが、他でもない祐介だった。
異世界で得た地位と資金を、ただの金儲けで終わらせるつもりはなかった。
第二の輸入品に選んだのは、金でも魔道具でもなく――本。
正確に言えば、日本の中学生向けの理科と数学のまとめ本、計4冊である。
だが、それをそのままこの世界に持ち込んだところで、誰にも読めない。
文字も言語も違えば、概念も常識も違う。
重要なのは、それを「この世界の言葉で伝わるようにすること」だった。
祐介は翻訳を、王都で知識人として名の知れた翻訳屋のマイルズに依頼した。
マイルズは、各国の古文書や異国語の解読、さらには魔術理論の注釈翻訳までこなす知的職人。
偏屈ではあるが腕は確かで、何より「未知の知識」に対する好奇心が強い。
初めて翻訳原稿を渡した日、彼は最初の数ページを読んだだけで顔色を変えた。
「これは……いったい、どこから来た書物だ?」
目に見えぬ力が、糸のように流れて動力になる――電気。
世界のすべては“極微粒”と呼ばれる、目に見えぬ粒子で構成されている――原子。
物体は質量に関係なく、同じ速度で落下する――重力。
植物が光を受けて自ら栄養を作り出す――光合成。
マイルズは震える手でページをめくりながら、衝撃を隠せなかった。
特に図や表が挿入されたページには、明らかな動揺を見せた。
「こんな発想が、どこに……。いや、この理屈、整いすぎている。偶然ではない。体系がある。これは、文明だ。学派でも、宗教でもない。文明がこれを生んだのか?」
祐介は静かに言った。
「出自は語れません。ただ、翻訳だけはお願いしたい。内容の秘密は守ってもらえるとありがたい。報酬は……倍で」
金貨の袋が机に置かれ、マイルズは黙って頷いた。
彼の目は、報酬よりも“未知への飢え”で濁っていた。
翻訳作業は難航した。
この世界には“電気”という概念が存在しない。
魔力の流れに例えることで、最終的に「力線」という語で意訳した。
“原子”はそのままでは抽象的すぎるため、「極めて小さく、これ以上分解できない粒子」として、「極微粒」と表現された。
ほかにも、関数は「変化する値を結ぶ式(可動式)」、方程式は「未知を導く均衡の術式」など、魔術理論に近い構造に置き換える工夫が随所に施された。
翻訳完了までに三週間を要し、マイルズはその間、食事と睡眠を削って作業に没頭していた。
完成した訳文を見て、祐介は満足げに頷いた。
「これで、この知識は“この世界の言葉”になる」
次に祐介は、それを形にする――出版という工程に移った。
印刷を依頼したのは、王都南区の老舗“ロズバーン工房”。
宗教文書や貴族の家系記録を専門に扱う、設備と技術が整った印刷屋だ。
祐介は各科目ごとに100冊ずつ、計400冊の印刷を依頼した。
印刷コストを抑えるため、内容は簡潔に再編し、小型の冊子として製本する。
だが同時に、祐介は“ある演出”にもこだわった。
表紙の装丁である。
ただの学習冊子では終わらせない。
祐介は、表紙に革風の加工紙と銀箔の印章を施し、中央に幾何学模様を彫り込んだデザインを指示した。
見た者が「これは高貴な書だ」と思うような、威厳と洗練を演出した外装。
「内容がどれほど優れていても、“安く見える”ものは価値を疑われる。
逆に、“高そうに見える”知識は、それだけで信頼される」
祐介の狙いは、知識そのものではない。
知識を“持つこと”が、ステータスになる仕組みを作ることだった。
完成した本は、黒地に銀の装丁が映える、手のひらサイズの小冊子だった。
表紙には「知の断章・力線篇」「知の断章・極微篇」といったタイトルが刻まれ、いかにも“特別な教本”といった趣を漂わせていた。
製本された400冊の教科書は、まず祐介の屋敷の書庫に一時保管された。
そして彼の手で、王都の貴族、魔術師、教師、富裕商人たちの元へと、選ばれた者だけが受け取れる特別な書物として配布されていく。
それはただの知識の伝達ではない。
“選ばれた者しか触れられない知”としての演出だった。
この一手により、祐介の名と屋敷は、「新しい学術が芽吹く場所」として徐々に注目を集めていく。
そして、誰もまだ知らない。
この薄い冊子が、やがて王都の常識を根底から覆す**“知の革命”の種子**になることを――。