幽霊令嬢と王子の秘密
——落ちるっ!
そう思ったときには体が浮いていた。
王城の長い階段を下り始めたところで、わたしは後ろから誰かに押された。
そこまでは覚えている。
次に気が付いたとき、わたしはベッドに横たわっていた。
金色に輝く波打つ長い髪、閉じた瞼には長いまつ毛が際立っている。シミひとつない白い肌は頬に微かな赤みを帯び、紅を差さない唇は健康的なローズカラー。
自分で言うのも何だけれど、わたし、なかなか美しいんじゃないかしら?
ベッドの横では、婚約者である第二王子が、さらりとした銀髪を無造作に乱し、わたしの手を握っていた。
「アデリー……」
彼は切なそうにわたしの愛称を呼んだ。
やめて! 他の女性を抱いたその手で触らないで! 意識があったら振りほどいてやるのに!
ん……?
意識がないのに、わたしはなぜ彼がわたしの名を呼んだり、手を握っていることがわかるの? そもそも、ベッドに横たわる自分の姿を見ているのっておかしいわね。
わたしは周囲の状況を確認した。
ベッドに横たわっているのはわたしだわ。では、わたしは?
わたし、死んだのかしら……?
わたしの体はゴーストのように半分透けていた。
ベッドに横たわっているわたしの体は息をしている。死んではいないようだけれど、もうすぐ死ぬとか?
今死んだらすんなり神のもとへは行けそうもないわね。毎晩この婚約者の枕元に立って、「裏切り者〜~~……」って言ってやらないと気が済まないもの。
ところで、わたしの声って聞こえるのかしら? 姿は見えるの?
わたしは彼に近づいて、耳元で声を出した。
「浮気者」
目の前にいる彼はなんの反応も示さない。横たわるわたしの手を握ったまま、その青い瞳を潤ませて、わたしの顔を見つめている。
声も姿も認識されないようだ。
困ったわ。枕元に立っても恨み言が言えないじゃないの。
***
カストィル侯爵家当主執務室では、今夜も同じ光景が繰り広げられている。
「ですから! 第二王子殿下には、他に愛する女性ができたのです! わたくしとの婚約を破棄してくださいませ!」
そう声を荒げているのは、この家の長女であり、第二王子の婚約者、アデライード・カストィル侯爵令嬢。つまりわたしだ。
「アデリー、何かの間違いではないのか。私の元にはそのような報告は届いていないぞ」
当主であり宰相でもある父は、眉間に寄った皺を揉み解すようにしながら、わたしを諭すように言った。
「間違いではありません。学園でそれを知らない者などおりませんわ」
「しかし、所詮は噂にすぎないのだろう?」
わたしは冷たい視線を父に向けた。
「お父様、わたくしはお母様とは違いますわ。見て見ぬふりなどしません」
「な、何っ!? いや、誤解だ! 私は妻一筋だ!」
目を泳がせ言葉を詰まらせる父に、わたしは毅然とした態度で告げた。
「お父様、もう一度言いますわ。婚約を破棄してください。でなければわたくしにも考えがありますわ」
「わかった……。それが事実なら考えよう……」
(よしっ! 言質は取ったわ!)
我がギーズガルド王国の第二王子であるハインリヒと、わたしアデライード・カストィルの婚約は、お互いが七歳のときに結ばれた。以来十年間、わたしたちはお互いを信頼し、尊重しながら関係を育んできた。
だが! あいつは裏切った……!
我が国の王侯貴族は、十三歳から六年間、貴族学園に通うことが義務付けられている。婚約者のいない子息令嬢にとって、良い出会いの場だ。
しかし、ハインリヒはわたしという婚約者がいながら、学園で出会った令嬢と浮気しているのだ。
ハインリヒの相手は、ナタリー・ソネット男爵令嬢。真っすぐなピンクベージュの髪と澄んだグレーの瞳が印象的な美少女だ。
ソネット男爵家は音楽に造詣の深い家系で、何人もの音楽家を輩出している。ナタリー様も例外ではなく、チューバ奏者として有名で、小柄で儚げな見た目ながら、いつも大きな楽器ケースを背負っている。
親切な令嬢というものはどこにでもいるもので、わたしにハインリヒの浮気を教えてくれたのもそういった令嬢たちだった。
「お二人の出会いはとても運命的だったと言いますわ。なんでも校舎の角でぶつかってしまわれたとか」
「それ以来、第二王子殿下とナタリー様が一緒にいる姿が目撃されるようになったそうですわ」
「わたくし、殿下がナタリー様の楽器ケースを運んでいたのを見ましたわ」
「先日は、泣いていた彼女を殿下が励ましていましたわ」
(チープなロマンス小説ね……)
社交界では噂ひとつが命取りになることもある。わたしは真実を確かめようと、学園内の王族室へ向かった。
王族室の前では、ハインリヒの側近であるネイサン・クラーク侯爵子息が待機していた。彼はわたしを見て一瞬目を丸くしたが、すぐに笑みを浮かべた。
「ごきげんよう、ネイサン様。殿下はいらっしゃるかしら?」
「カストィル侯爵令嬢がこちらにいらっしゃるのは珍しいですね。殿下にご用事が?」
「ええ。通してくださる?」
わたしがそう言うと、ネイサン様はわずかに眉を下げた。
「殿下は今、頭痛がすると言って休んでおられます」
彼がそう言ったとき、『ブォーン』という、金管楽器の低い音色が聞こえてきた。
「チューバの音色……?」
ネイサン様は表情を固め、冷や汗を垂らした。
「……これは音楽療法です。チューバの音色には頭痛を和らげる効果があるそうです」
(そう……。部屋の中にはナタリー様がいらっしゃるのね)
「この大地が鳴り響くような力強い深い音が、頭痛を和らげるんですの?」
わたしは笑顔を貼り付けたまま中に入ろうとした。けれど、ネイサン様はそうはさせまいと、わたしの前に立ち塞がり、それを阻止する。
「申し訳ありません。殿下から誰も中に入れるなと命令されています。どうかご容赦を」
ネイサン様をじっと見つめると、彼は少しずつ目を逸らした。
(間違いない。これはクロだわ!)
***
我が国は一夫一婦制である。しかし、貴族たるもの政略結婚は当たり前。従って、妻や夫以外に愛人を持つ貴族も多い。けれどそれは、相手を尊重し、相手の承諾があってこそ許されるものだ。
わたしは結婚後に夫が愛人を持ちたいと言ったら、考える間もなく即離縁だ。誰かと夫を共有するとか冗談ではない。それは婚約中でも同じこと。
「動かぬ証拠を掴んでやるわ。ハインリヒ、首を洗って待ってなさい!」
わたしは状況を把握するため、ハインリヒとナタリー様に意識を向けた。そして気付いた。ナタリー様は事あるごとにわたしをじっと見ているのだ。
(身を引けと言いたいのかしら? もちろんいいわよ。王家有責で婚約破棄したあとならご自由にどうぞ!)
二人が逢瀬を重ねているのは、王族室が多いようだった。
ハインリヒはランチのあと王族室を利用している。わたしは浮気の証拠を掴もうと、彼が食事を摂っている間に王族室に忍び込んだ。奥のドアの先は書庫になっており、わたしはそこに身を隠した。
待つこと数十分。
ハインリヒが入室し、暫くしてナタリー様が入室したようだ。
息を殺し、耳を澄ます。
「ああ、素晴らしい。この吸い付きたくなる白い肌。私の手にピッタリのこの胸の膨らみも、理想的だ」
「だめです……そんなところ触らないで……」
ハインリヒとナタリー様の声が聞こえてきた。
(なんてこと……! ここは王族室とは言え、学園内よ!?)
「なんて可愛いんだ」
「ああ……やめてください……」
(こんなところで男女のい、い、い、営みを……!? 浮気と言っても精々キスくらいだと思っていたのに……!)
どうしましょう!? 出るに出られなくなってしまったわ……!
わたしは退路を探して辺りを見回した。すると棚の陰に人ひとりが通れる程の小さなドアを見つけた。
(こんな所にドアなんてあったの……? 何処に繋がっているのかしら……?)
けれど、行くしかない。わたしは迷うことなくそのドアを開け先へ進んだ。
「王族のための隠し通路のようね」
薄暗い通路を進むと、やがて出口にたどり着き外へ出た。
「ここに繋がっていたのね」
そこは旧校舎の裏だった。旧校舎は現在、美術教師であるオリバー先生のアトリエとして使われている。
「こうしてはいられないわ。お父様に報告しなくては……!」
午後の授業を終えたわたしは、急いで王城の宰相執務室に向かった。しかし、お父様は地方への視察のため留守にしていて、数日は戻らないということだった。
「そういえばそんなこと言っていたわね……」
自邸に帰ろうと足を進め階段を下り始めたとき、ドンッと背中に衝撃を感じた。
体が傾き、落ちるっ! と思ったところで、わたしは意識を失った。
***
「王城って上から見るとこうなっていたのね」
わたしは王城の上から、辺りを見渡していた。
王城はまるで巨大な芸術作品のようだった。広大な敷地の中心には高い塔がそびえ立ち、その周りには大小さまざまな建物が点在していた。城壁は厚く堅固で、その内側には美しい庭園が広がっている。そのすべてを見下ろすように、城の最上部には大きな旗が立っていた。
「あら……? あれはナタリー様?」
庭園の隅に、大きな楽器ケースと一人の女性が見えた。
(わたしを突き落としたのはナタリー様なのかしら?)
わたしは彼女に近づいた。この体、便利だわ!
「うぅっ……なんでこんなことに……。アデライード様がお気の毒すぎる……」
ナタリー様はベンチに座り、下を向いてつぶやいていた。
「わたしがお気の毒って、どういうことかしら……?」
わたしがそう口にすると、彼女はビクッと体を震わせ顔を上げた。わたしと目が合うと、彼女は大きな目をさらに大きく見開いて叫んだ。
「ぎゃぁぁぁぁぁ! ゆ、ゆ、幽霊!!」
彼女は叫んだ拍子にベンチから転げ落ち、地面に尻もちをついた。
「ナタリー様……」
わたしが声を掛けると、彼女は両手を合わせ、呪文のようなものを唱えた。
「ナンマンダブ、ナンマンダブ。悪霊退散……いや、死んでないから生霊退散……!?」
わたしはさらに彼女に近づき、彼女の顔を覗き込むようにして囁いた。
「静かになさって? 呪うわよ?」
わたしがそう言うと、彼女は小さく震えながらも、ピタっと黙った。
「ナタリー様、わたくしが見えるのね?」
すると彼女は、「見えていませんよ?」というように、ゆっくりと目を逸らした。
「正直に言った方が身のためよ?」
彼女はすぐにガクガクと首を縦に振った。
「ナタリー様、わたくしがお気の毒ってどういうことかしら? 婚約者に浮気されてお気の毒ということ?」
「ち、ちち、違います! 第二王子殿下は浮気なんかしていません! どちらかというとストーカーです!!」
「すとーかぁ?」
彼女は小さくも声を荒げながら否定した。
「いえ……。と、とにかく、第二王子殿下はアデライード様を愛しています! しかもかなり重めに!」
「ハインリヒはあなたと浮気していたのではないの?」
「とと、とんでもないです!! わたしは殿下に脅されて仕方なく……」
(ハインリヒはナタリー様と浮気していたのではなく、彼女を脅していた……?)
「なんですって!? ハインリヒはあなたを脅して、無理やり関係を迫ったと言うの!?」
「ひぇぇぇぇぇ、ち、違います!! 何もされていません!! わたしは納品していただけです!」
(では、王族室のあれは何だったの? 納品とは……? ハインリヒはナタリー様に作曲を依頼していた……?)
「わたくしを突き落としたのはナタリー様ではないのね?」
「えぇ!? アデライード様、突き落とされたんですか!? 足を滑らせて落ちたってことになってますよ!? 幸い命に別状はないと聞いていますが……」
「違うわ。わたくしは突き落とされたのよ。なぜそんなことになっているのかしら?」
「見ていた方がそう証言したからです」
何かがおかしい……。わたしは違和感を覚え、首を傾げた。
「見ていた方というのは?」
「美術教師のオリバー先生です」
***
わたしは旧校舎に来ていた。ここには今は使われなくなった図書室、音楽室、美術室がある。
「中に入ってみましょう」
わたしは壁をすり抜け、旧校舎の中に入った。この体、本当に便利ね。
中に入ると、美術教師のオリバー先生と見知らぬ男性がいた。学園の関係者ではないようだ。
しかし、彼らの様子は穏やかではなかった。二人は声を荒げて言い争っていた。
「宰相の娘に見られたというのは間違いないのか!?」
「断言はできないが、娘は『こうしてはいられない。父に報告を』というようなことを言っていた」
「くそっ! バレたら俺たちは身の破滅だぞ! 今度こそ始末するんだ!」
「チッ……!」
(今度こそ始末ですって!?)
「わたくしを階段から突き落としたのはあなたね!?」
わたしはそう叫んだけれど、目の前の男たちにわたしの声は聞こえないようだった。
「この男たちが言っている『わたしに見られた』というのは何のことかしら。身に覚えはないけれど、わたしはそのために危険な目にあったのよね? 旧校舎の中に何か見られてはまずい物でもあるのかしら」
わたしは旧校舎の中をふわふわと浮いて見て回った。図書室、音楽室には特に怪しいものはない。次に美術室の奥の準備室を覗くと、そこには有名絵画のレプリカが数点置かれていた。
「素晴らしい出来栄えね。まるで本物のようだわ」
それらに感心していると、無造作に置かれた一枚の紙に気が付いた。その紙には見知った貴族の名前と、その横に数字が書かれていた。
その瞬間、なぜわたしが階段から突き落とされたのかがわかった。
「そういうことね。許さないわ!!」
***
わたしがナタリー様の元へ向かうと、彼女は首から十字架を下げ、聖書を抱えていた。部屋の四隅には塩が盛られていて、足元にはガーリックの束が散らばっており、窓辺には銀の鏡が掛けられていた。
その他にも怪しげな物体が、彼女の部屋のあちらこちらに置かれていた。
「何の真似よ?」
「ぎゃぁぁぁぁぁ! 出たぁぁぁぁぁ! 何で!? 効かない!?」
わたしは彼女に冷ややかな視線を向けて言った。
「わたくしは悪霊じゃないわよ」
「……デスヨネー」
そう言いながら、彼女は香を焚き始めた。
「ナタリー様、わたくしと一緒に来てちょうだい」
「えぇぇ~~~!?」
「呪うわよ?」
「イエッサー!」
わたしたちは王城へ向かい、急ぎハインリヒに取り次ぐように申請したけれど、すぐに許可が下りることはなく時間を要した。
「仕方ないですよ。わたしは一介の男爵令嬢ですよ? 第二王子殿下にホイホイ会えませんて」
(そういうものなのかしら。ハインリヒはわたしが登城するとすぐに現れるけれど)
「ここにわたくしがいると言ってちょうだい」
「無理です。わたしまで変人にするおつもりですか?」
(わたしまで?)
「それより、わたしは今、周りから見たらひとりごとを言っている状態です。察してください」
周囲を見回すと、衛兵たちは美しいナタリー様に見とれつつも、訝しげな視線を向けていた。
わたしはナタリー様に庭園で待っているように告げ、ハインリヒの私室へ向かった。
「確かこの奥だったわよね?」
幼い頃は彼の私室へ入ることが許されていたけれど、わたしたちが十三歳を迎えると、わたしは入室を禁止された。
婚約者とは言え、未婚の男女に間違いがあってはならないかららしい。
「あそこね」
わたしがハインリヒの私室へ近づいたとき、ちょうど目的の人物であるネイサン様が出てきたところだった。
わたしがネイサン様の正面に立つと、彼は大きく目を見開き、尻もちをついた。
(人って驚くと尻もちをつくものなのかしら……。まあ、良かったわ。ハインリヒにはわたしが見えないけれど、ネイサン様には見えるようね)
「ネイサン様ごきげんよう。少しお時間よろしいかしら。わたくしについて来てくださらない?」
わたしがそう言うと、彼は変わらず目を見開いたまま固まっていた。
「ネイサン様、こちらに来てくださいな」
彼の反応は変わらない。彼にはわたしの姿は見えても声は聞こえないようだった。
わたしは手招きをした。
「私を呼んでいるのですか……?」
そうそう! わたしは頷いて返事をした。
そして、少し進んでは振り返って手招きをし、また少し進んでは振り返って手招きをし、ということを繰り返し、ネイサン様をナタリー様のもとへと連れて行った。
わたしがネイサン様を連れて庭園に戻ると、ナタリー様は見たことのない踊りを踊っていた。
「何なの? それ」
「……盆踊りは戻ってきたご先祖様の霊を慰めるものなんですよ」
「ぼんおどり? わたくしはあなたのご先祖様でもないわ」
「それはわかってますけど、踊らずにはいられなかったんですよ……」
わたしたちのやり取りを見て、ネイサン様が言葉を発した。
「ソネット男爵令嬢。君は、この……カストィル侯爵令嬢……でいいんだろうか……と会話ができるのか?」
「ええ……まあ……はい……そうですね……」
ネイサン様は驚愕の表情を浮かべて、わたしとナタリー様を交互に見ていた。
「ナタリー様、ネイサン様に伝えてちょうだい」
「イエッサー」
わたしは静かに告げた。
「学園の美術教師であるオリバー先生は、有名絵画の贋作を製作して売っています」
「えぇぇ!? そうなんですか!?」
「伝えてちょうだい!」
ナタリー様はネイサン様に向かって言った。
「今からわたしが話すのは、アデライード様の言葉です。『学園の美術教師であるオリバー先生は、有名絵画の贋作を製作して売っています』」
「何だって!?」
わたしは続けた。
「オリバー先生は、それをわたくしに目撃されたと思って、わたくしを階段から突き落としました」
「えぇぇ!? まさか口封じですか!?」
「伝えてちょうだい!!」
ナタリー様は深刻な顔をしてネイサン様に言った。
「オリバー先生は、それをアデライード様に目撃されたと思って、アデライード様を階段から突き落としたそうです!」
「何と言うことだ……!」
ネイサン様は冷静さを失わないように努めているのが見て取れた。
「贋作は学園の旧校舎の美術準備室にあります。顧客リストもそこにあります」
「アデライード様は、贋作は学園の旧校舎の美術準備室にあり、顧客リストもそこにあると言っています」
「…………こうしてはいられない、殿下に……いや、陛下にお伝えしなければ」
わたしは今にも駆けだしそうなネイサン様の前に立ち塞がり(この場合、浮き塞がりかしら……)、両手を広げ首を振る。
「オリバー先生が証拠を隠してしまうかもしれませんわ。ですから、わたくしがそれらを見張ります。ですが、このままではわたくしが殺人未遂の被害者だと証明できません」
ナタリー様にそう伝えてもらおうとしたとき、彼女は少し考えるそぶりを見せて口を開いた。
「アデライード様、わたしにいい考えがあります!」
「いい考え?」
ナタリー様はネイサン様に顔を向け、言った。
「クラーク侯爵子息様、アデライード様は第二王子殿下のアレにお気づきです」
アレとは……?
「アデライード様はお怒りです」
「だろうな……」
「アデライード様はこれ以上はやめるようにと言っています」
「そうか……」
「アデライード様は第二王子殿下を止めないあなたにも責任があると言っています」
「申し訳ない……」
「では、責任をもって、第二王子殿下を止めてくださいね?」
「ああ、約束しよう」
ナタリー様はにんまりとした表情を浮かべた。
「わたくし、そんなこと言っていないじゃない」
「まあまあ、後で説明しますから」
ナタリー様は幽体のわたしに慣れてきたようだ。
「それで、何がいい考えなの?」
「はっ! そうでした!」
ナタリー様はそう言って、ネイサン様とひそひそと話し始めた。
「では、アデライード様は証拠を見張ってください。クラーク侯爵子息様、準備しましょう!」
こうして、わたしは証拠品の見張りのために旧校舎の美術準備室に向かった。
***
旧校舎の裏には、一人の女性が立っている。金色に輝く波打つ長い髪、閉じた瞼には長いまつ毛が際立っている。シミひとつない白い肌は頬に微かな赤みを帯び、紅を差さない唇は健康的なローズカラー。晴れ渡る空のように澄み切った青い瞳は、心まで洗われるような清々しさを感じさせる。
彼女に忍び寄る男の手には、彼女を殺すための剣が握られている。男は物音を立てないよう、ゆっくりと彼女に近づいて行った。
彼女は微動だにせず、じっと一点を見つめている。
男は彼女の背後に音もなく立ち、剣を引き抜いた。彼女の無防備な背中を突き刺そうと剣を構え、一気にそれを突き刺した。
いや、突き刺そうとした……。
カチン!という音のあと、彼女は倒れた。ゴトッ!という音を立てて。ほとんど動かないそのままの姿勢で。
「「え?」」
わたしと男の声が重なる。周囲には男……オリバー先生の声だけが聞こえただろう。
「捕らえろ!」
ネイサン様の声に従って、騎士たちは素早くオリバー先生を拘束し、旧校舎の捜索を始めた。
「何……アレ……? わたくしにそっくりじゃない……?」
わたしがそう言ったとき、背後から怒りを含んだ声が響いた。
「貴様……! よくも私のアデリー五号を……。許さん……!!」
それはハインリヒだった。ハインリヒはオリバー先生を今にも殺さんばかりの形相だ。
「アデリー五号……?」
わたしの問いに対して、スッと現れたナタリー様が説明を始めた。
「どうですか!? あれはわたしが制作した等身大の球体関節人形です!! 凄いでしょう!? 石粉粘土で出来ているんですよ!! 石粉粘土とは、石を粉状に砕き、石炭を焼いて作ったモルタルの接着剤などを混ぜ粘土状にしたものです。ベストな状態になるまで五年かかりました!!」
ナタリー様は得意げな表情を浮かべている。けれど、ちょっと待って……?
「なぜ、あなたがわたくしにそっくりな人形の制作を……?」
ナタリー様は遠い目をしながら、最後は不満げな表情で言った。
「わたしは前s……いえ、趣味で人形を作っていました。ある日、制作した推し人形を楽器ケースに入れて運んでいたところ、学園の校舎の角で第二王子殿下にぶつかってしまい、その人形を見られてしまったんです。殿下は口外しない条件として、アデライード様の人形を作るように脅……命令したんです! 仕方なく一体作って納めたところ、ここが違う、あそこが違うとケチばっかりつけて!! もっとよくアデライード様を観察しろと言っては何体も作らされたんですよ!? 最近ではチューバよりアデリーズを運ぶ方が多かったほどです」
(おし人形って何かしら? いえ、何体もって言った……? アデリーズ……?)
「それらは今何処に……?」
「第二王子殿下の私室にあるんじゃないですかね?」
なんですって……? わたしはハインリヒの私室へ急いだ。
ハインリヒの私室には、驚くべき光景が広がっていた。
ソファーに座り微笑むアデライード人形。
窓辺に立ち外を眺めるアデライード人形。
テーブルセットにつきお茶を楽しむアデライード人形。
本棚の前で本を開くアデライード人形。
ドレッサーに座り鏡を見つめるアデライード人形。
そして、ベッドに横たわっているアデライード人形……。
わたしは王族室のハインリヒとナタリー様の会話を思い出した。
『ああ、素晴らしい。この吸い付きたくなる白い肌。私の手にピッタリのこの胸の膨らみも、理想的だ』
『だめです……そんなところ触らないで……』
『なんて可愛いんだ』
『ああ……やめてください……』
ハインリヒは、この人形を…………。
わたしの意識はそこで途切れた。……幽体の意識も途切れるらしい。
***
目を覚ますと、ハインリヒがわたしの手を握って、心配そうな顔でわたしを覗き込んでいた。
「アデリー、気分はどう?」
「ハイン、わたくしはどうしたのかしら……」
頭がぼんやりとして、長い夢から覚めたような感覚だった。
「君は階段から落ちて意識を失っていたんだ。もう大丈夫だよ。全て終わったから」
「ええ……」
何か大事なことを忘れているような気がするけれど、わたしは、ハインリヒは浮気をしていないと知っていた。
わたしはハインリヒの手を借りて体を起こした。一瞬ゾワッと寒気がしたのは気のせいかしら……。
「アデリー、君を失うかと思って、とても怖かった……」
「ハイン、わたくし、あなたが浮気していると思って、とても悲しかったわ」
「馬鹿だな、そんなことあり得ないのに……。私にはアデリーだけだよ」
「そうね、疑ってごめんなさい。ハイン」
わたしたちは額を合わせて笑い合った…………わ。昨日は。
翌日、ハインリヒと共に学園の王族室へ向かっていると、大きな楽器ケースを背負ったナタリー・ソネット男爵令嬢と会った。
その瞬間、わたしの脳裏には様々な記憶が蘇ってきた。
わたしは、横にいるハインリヒにゆっくりと顔を向ける。
「アデリー、どうしたの?」
ハインリヒは満面の笑みでわたしを見ているが、その瞳の奥には隠し切れない欲望が見て取れた。
「いやぁぁぁ! 変態っ!!」
わたしは思い出してしまった!! ハインリヒの奇行を!!
「くそっ……! もう少しで本物とイチャイチャできたのに!!」
わたしは走って逃げだした……!
「アデリー! 待ってくれ! 男なんて皆こんなものなんだ!!」
ナタリー様のわたしを応援する声が響いた。
「アデライード様、逃げていいです! 逃げていいです! 逃げていいですーーーっ!!」
——おわり——
多くの作品の中から、この作品を読んでいただき、ありがとうございました。