無欲でドライな交友領域
“万人から好かれたい”なんて思わなければ、人づき合いは案外気楽なものだ。
“愛されたい”とどんなに願ったところで、“嫌われるのが怖い”とどんなに怯えたところで、他人の心は俺の自由にならない。
だったら俺の手の届く、それなりの交友関係で満足しておけば、無駄に傷つくこともない。
来る者拒まず、去る者追わず――成り行きに任せて流されるままに生きる。
きっと今の時代を生きるには、それが一番コスパが良い。
俺は自分の友人に、多くのものを求めない。
いつでも味方でいて欲しいだとか、常に俺を肯定して欲しいだとか、俺の言動に期待通りの反応を返して欲しいだとか、俺のことを理解して欲しいだとか――そんなことは思わない。
もちろん、その希望が叶ってくれたら嬉しい。
だが、期待はしない。
人間相手に期待のハードルを上げても、ロクなことにはならないからだ。
思うに、交友関係で傷つく人間の多くは、高望みをし過ぎているのだろう。
何があっても裏切らない友達、傷ついたら慰め支えてくれる仲間――それは、どこにでも当然のように転がっている存在ではない。
沢山の人間を敵に回しても味方であり続ける――そんな友情には、普通に“勇気”や“精神力”が要る。
仲間が凹んでいる時、何も語らずとも察する――そのためには、“観察力”や“繊細な心”が要る。
まして的確にフォローして支えるには、“知識”や“経験”がモノを言う。
そんな大層な“人間力”を持つ人間――いないわけじゃないが、そこらにゴロゴロ転がっているわけがない。
友人に恵まれるかどうかは、結局のところ運と確率の問題だ。
俺は自分の対人運を、そこまで楽観視してはいない。
とは言え俺も、初めからこんな風に悟りを開けていたわけじゃない。
幼少期の俺は少年マンガの熱い友情を鵜呑みにして、自分もソレを手に入れられると信じていた。
世の中の仕組みも他人の心も何も知らず、“友達”なら自然と何でも理解り合えると、勝手に信じ切っていた。
だから、些細なことで簡単に傷つき、裏切られた気分に落ち込んだ。
今振り返ればちっぽけなこと――だけど当時は重い出来事だった、親との衝突、価値観のズレ……親だからというだけで一方的に意見を握りつぶされ、その理不尽さに震えた俺は、当時の友人に愚痴をぶつけた。
慰めが欲しかったと言うよりは、ただこの憤りを共有して欲しかった。
儘ならない現実への行き場の無い怒りを、ただ分かち合って欲しかった。
たぶん、そんな気持ちだったように思う。
だが、その望みは叶わなかった。
返って来たのは「それは仕方ないんじゃないか」「お前の言い方も悪かったんじゃん?」という、期待と真逆の反応。
当時の俺は、それを“冷たい”と感じてしまった。
気持ちを理解してもらえなかったことにショックを受け、その理由を「本物の友情じゃなかったからだ」と考えてしまった。
それ以来何となく、その友人とは距離を置くようになった。
今思えば、相手が単に“他者への共感”より“自分の意見”を優先するタイプだった、というだけの話なのかも知れない。
つまらない愚痴を延々と聞かされるのが迷惑だったのかも知れない。
そもそも当時まだ小学生だった相手に“気持ちを分かち合う”なんて高度なことを求めたのがいけなかったのかも知れない。
成長した今なら、いくらでも反省点が思いつける。
だが、当時の俺にそんなことは微塵も思いつけなかった。
きっと、期待する側にも罪はある。
人は期待を裏切られると、勝手に失望する。
そもそも相手の能力も見ず、重い期待をかけ過ぎていたとしても――そんな自分の誤認にはロクに気づかず、相手の非ばかり見てしまう。
そんなことで簡単に相手を嫌いになったり、友情が破綻したり……俺は今まで、幾つの交友関係を無駄に失って来たのだろう。
自分の理想通りの完璧な友人なんて、誰でも欲しいに決まっている。
だが、そんな友人が突然天から降って来るわけもない。
完璧なんかじゃない人間ばかりのこの世の中で、それでも何とか交友関係を築き、維持していく――そこに高い理想や期待なんて持ち込んだところで、空しいばかりでコスパ最悪だ。
相手に“期待しない”ことは、実は案外コツが要る。
期待は大概、知らず知らずのうちに発生しているものだからだ。
その無意識を意識して、抱え込んでしまった期待を、そっと手放す。
コツさえ掴んでしまえば、後は案外ラクなものだ。
俺はもうここ何年も、他人に何かを期待していない。
相手を褒めれば、向こうも褒め返してくれるなんて期待してはいない。
相手を気にかければ、向こうも気にかけてくれるなんて期待してはいない。
こちらの好意や心配なんて、意外と相手に伝わっていないこともある。
こちらにとっての最大限の賛辞が、蝶の翅音ほども相手に響かないこともある。
人生わりとそんなものだ。
相手の役に立つことをすれば好きになってもらえるなんて、期待してはいない。
見返りを期待すればするほど、それが得られなかった時、苦しくなる。
報われる未来を期待してしまうから、報われない現在に絶望してしまうんだ。
期待するのを止めれば、ラクになれる。
期待と失望の落差に、心を振り回されずに生きていられる。
他人に期待をしなくなってから、交友関係で気負うことがなくなった。
人間関係で躓くことがあっても「運が悪かった」「切り替えて次へ行こう」と思えるようになった。
逆に言うと、今の俺はそこまで友人の一人一人に執着を持っていない。
上手く関係を築けたならそれで良し、上手く行かなかったら「そこまで」の割り切った交友関係。
スマホに入った山ほどの連絡先データが、ある日いきなり全消失したとしても「仕方がないか」と割り切れるほどの、ごく浅い関係性。
成長するにつれ、気づけば“その場限り”の関係が増えた気がする。
クラス、部活、バイト先……その場その場の“居場所”を築くための交友関係。
“場”が変わればわざわざ触れ合うこともない、その場所限定のつき合い。
自分でそうしておきながら、時々ふと、そこに寂しさを感じることがある。
幼い頃はもっと“友達”が特別なものだった気がする。
幼い頃はもっと“友情”を欲して止まなかった気がする。
今の俺にとって、交友関係は“空気”のようなものだ。
無ければ困るが、特別に何かを感じるわけでもない、当たり前で無味乾燥の“人生の一部”。
友人とは、友情とは、もっとキラキラした、神聖な何かではなかったのだろうか。
きっと、幼いあの頃は“期待”があったから友情を求めていられた。
友達がいれば怖くない、ずっと支え合って無敵でいられる――幼心の幻想だとしても、そんなキラキラした希望があったから、友情を大切に思っていられた。
友情は“自分を幸せにしてくれるもの”だと信じていた。
他人に期待しなくなってから、交友関係がラクになった。
だけど友情に希望を持っていたあの頃の方が、人生が輝いて見えていた気がする。
俺は人間関係に器用になった心算で、実はひどく大切なものを、自ら手放してしまったのだろうか。
他人に期待しなければ、傷つくこともない。
全てを“運”だと割り切れば、上手く行かない時に「自分の交友能力不足だ」と過度に沈むこともない。
傷つかず、沈み込まず、自分の心を平穏に保つための、丁度良い交友範囲。
選んだのは俺自身だ。
今さらそこに物足りなさを感じてしまうなんて、呆 れ果てた“自業自得”だろう。
結局、他人に期待しない方が良いのか、期待を持って生きた方が良いのか――答えなんて、きっと出ない。
運良く友人に恵まれれば「期待した甲斐があった」になるし、恵まれなければ「期待せずにいて良かった」になる。
人は自分の未来を見通すことなど出来ないのだから、選びようが無いのだ。
俺は、自分が傷つかない交友関係を望んだ。
期待と失望に激しく心を揺り動かされない人生を選んだ。
それだけのことだ。
自分の選んだ道の結果くらいは、受け入れる覚悟がある。
ただ、それでも――これが俺にとって、最善の選択であることを願う。
悩み抜いた末に選んだものが「間違いだった」なんて、あまりに無情が過ぎるから。
この道の先に、俺にとっての幸福があれば良いと、期待をせずに願っている。