六話
少し間を置いてから景虎は口を動かす。
空を見上げ、木々の間から零れ落ちる光に目を細めて、答える。
「見てみたかったのかもしれない、この国を」
「甲斐を?」
「そう」
「何故?」
「どんな国か知りたかったから」
そう、どんな国か知りたかったから。
あの男が治める国を。
武田晴信が治める国をこの目で見てみたかったから。
そんな思惑が自分の心のどこかにあったのかもしれない。
そう思いながら景虎は言葉に出した。
「そうか……」
晴信は景虎の言葉を聞いて、答えた。
その言葉を小さく、そして長く呟いた後、目を開けた。
「……越後に、長尾景虎という人物が居るのを知っているか」
突然晴信が言い放つ。
景虎はその名前を聞いてびくっと身を震わせた。
それもそうだろう、宿敵と呼ばれている男の言葉の中に、自分の名前が含まれていたのだ。
知っているも何も自分の事だ。誰よりも一番よく知っている。
だが、知っていると答えられなかった。
越後の国の英雄。知らない人間など居る筈もない。
だが景虎はその言葉を、その一言を紡ぐ事が出来なかった。
その様子を見ているのか見ていないのか、晴信は言った。
「その者と、我は二度ほど対峙した事がある。強い相手だった。気に食わない奴だったが」
気に食わない奴だった、そう言われて景虎は何か言い返してやろうかと思ったが、それでは今黙っていたのに意味がなくなってしまう。
晴信に怒りを覚えながらも我慢して聞くことにした。
大体気に食わないのは景虎も同じ事であるのだから。
「その景虎という人物は、何故だか気になる存在でな」
「は?」
うっかり声を出してしまった。まるで自分に問われた事かのように。
別に由布が気になるといわれたわけではない。
だがこの由布は長尾景虎その者なのだ。
あの武田晴信が、長尾景虎を気になると言った。
それがどのような意味かは分からないが、その言葉自体が景虎にとっては意味がわからない事だったのだ。この男は何を言っているのだ、と。
だがそのような景虎の声を無視し、晴信は続けた。
「あのような者が作る場所はどのようなものかと。越後とはどのような国なのかと。普段の長尾景虎とはどのような人物なのかと……」
晴信は空を見上げながらそう続ける。
が、その顔をくるっと景虎の方へと向けた。
晴信の顔を見ていた景虎は、いきなり自分の方に向いたことで驚き、軽く身を後退させてしまう。
「だが、お主を見ていたら何となく分かったよ」
「な……何がですか?」
「越後の国というところがだ」
「……つまらない国だと?」
先ほど自分が話した事からはとても良い風には聞こえないだろう。
そう思って景虎はそのように口にした。
だが、晴信はははっと高らかに笑って言った。
「いいや、むしろ面白そうな国だと思った」
「……はあ?」
「良い国なのだろうな、越後は」
「何故、そう思われるのですか?」
心底不思議そうに、いや実際不思議だったのだ。景虎はそう訊ねた。
すると晴信はまた目を瞑り、空を仰いだ。
「何でだろうな……」
その言葉を紡いだ後、晴信は言葉を発さなくなった。
景虎はその言葉の続きを待っていたが、いつまで経っても晴信から続きの言葉が紡がれることはない。
ふぅっとため息をつく景虎。
「晴信様?」
晴信の名を呼んでみるが、晴信からの返答はない。
耳を澄ましてみると、晴信からは規則正しい息遣いが漏れている。
「……寝てます?」
景虎はもう一度晴信に話しかける。
だが返答はない。どうやら眠ってしまったらしい。
「……んだよ、話の途中で寝るか普通」
言動をいつもの景虎のものに戻し、ボヤいてみる。
が、その言葉遣いに晴信は怒るでも、呆れるでも、笑うでもなく、すやすやと規則正しく息をしているだけ。
景虎はそんな晴信を横目にふぅっとまた一つため息をついた。
(しかし共も付けずに一人で出歩くなんて……どうかしてるんじゃないのか、コイツ)