五話
その後、一度景虎が泊まっていた宿に戻り、着物に着替えた姿を見せてくれと晴信に言われ、渋々ながら晴信から貰った着物に腕を通した景虎。
「ひー……やっぱいい布だよなぁ。すっげ肌触りがいいんだけど」
そう呟きながら宿の階段を下りていく。
その様子を景虎自身は気づいていなかったが、宿の娘や客がまじまじと見ていた。
そう、美人なのだ。驚くほどに。
化粧も施し、美しい着物を纏うその姿を誰もあの“長尾景虎”だとは思いもしない。
「すみません、お待たせしました」
そう言って景虎は宿の前で待っている晴信に声をかける。
晴信はその声に振り向き、一瞬だけ目を大きく見開かせる。
そしてじーっと景虎を見つめた後、笑ってこう言った。
「やはり似合っているな。想像以上だ」
「そ、そうですか……どうも」
景虎は晴信の真っ直ぐすぎる言葉を聞き、そう返すしかなかった。
何だか照れくさいものだ。世の女性とはこのような言葉で照れくさくなったりするものなのだろうか?と考えながら。
「やはり着物も着てもらった方が嬉しいだろうからな」
「……武田様の館では着られる方はいないのですか?」
「ああ。女房たちはとても恐れ多くて、とお主と同じような事を言って腕を通そうとしない。妻は……まぁ、先ほど言ったようにあ奴はそのような色は好まないからな」
(……そういえば正室の三条の方とはあまり折り合い良くねーって聞いたことあるな)
少し淋しそうに呟いた晴信の横顔を見ながら、景虎は前に家臣たちが話していた事を思い出していた。
正室どころか側室もいない景虎にとってはよく分からない話だが。
喋りながら歩いていたら、何時の間にやら町外れの丘に出てきていた。
景虎はただ晴信の後を着いて行っていただけなのでここに来ようなどとはもちろん思っていなかったのだが。
大体甲斐の国は初めて来たのだ。このような所に丘があるなどとは知る由もない。
「少し、休むか」
晴信が丘の上にある一つの木を指差してそう言う。
あの木の麓で休もうということなのだろう。景虎は特に断る理由も思い当たらなかったので、晴信の言葉に軽く頷いて晴信の後を着いていく。
景虎と晴信は、木陰になる場所に腰を下ろした。
晴信はそのままごろりと寝そべる。景虎もそうしたかったが、今は女の格好。しかも着物は貰い物ということで諦めて、木を背もたれに座ることにした。
晴信は寝転んだ後、数秒の間目を閉じていた。が、ぱちっと目を開けると景虎に向かって問うた。
「由布……お主、何故わざわざ越後の国から甲斐まで来たのだ?」
突拍子もない台詞だった。
だが考えてみればそうだろう。良家のお嬢様ーー見た目ではそう見える事だろうーーがお供も連れず一人でこの距離を歩いてきたのだと言うのだから。
それは晴信でなくても、誰が聞いても不思議に思うことだと思うだろう。
景虎はその晴信の台詞に対してどう答えるか迷っていた。
だが、少しの間考え込んだあと、意を決して言った。
本当の理由を。
「……何だか疲れてしまって」
「疲れた?」
ふと風に消えるような声で景虎は言う。
その言葉を聞いた晴信は目だけを景虎の顔の方に向ける。
だがその時の景虎の顔が、あまりにも儚くて消えてしまいそうだったから、晴信は目を逸らし、宙を仰ぎ、また目を閉じてしまった。
「家臣たちは腹の底で何を考えているか分からないし、国の中ももめているし、各国との戦は続いてばかりで……何だかもう全てが嫌で、全てに疲れてしまって……気づいたら書置きだけ残して飛び出していました」
「……」
晴信からの返答はない。
だが気にせず景虎は続ける。
「わたくしが居なくなれば、困るのは分かっていました。だけどわたくしにもどうしていいか分からなかった。わたくしが最初戦場に出たいなどと言うと反感を買う場合もありました。でも、一度わたくしを皆に認めさせれば、今度は出ろ出ろとどんな戦場にでも無理強いさせられる。そう、望まぬ戦も……いっそ出家をしてしまえばいいのだろうと思ったけれど、家臣たちはそれを許してくれない。我が身なのに我が思うようにできない。そのようなもの、分かっていたのに、ずっと、前から……」
だけど辛くて……と言おうと思ったところで口を止めた。
何を、言っているのだろう自分は。
このような所でこのような者に。
自分は何か今とてつもなく言ってはいけない事を言わなかったか?どうだった?先ほど自分が言ったことなのに思い出せない。
適当に嘘を言っていればいいのに何故本当の事を言ってしまっているのだろう。
この男に。
こともあろうか、この武田晴信に。
そう思ったが、口は止められなかった。何故か言ってもいいと思ったのだ、この男には。
「……甲斐の国に来たのはただ何となく、なんです。越後を出てから何処に行こうなどとは考えていなかった。ただ、足が、甲斐の国を目指していたのです。気づいたら此処に来ていた」
「何の理由もなく、甲斐まで来たということなのか?」
ここで景虎が話を始めてから、初めて晴信が口を開いた。
だがその両目はまだ硬く瞑ったままだった。
「はい。何となく、です」
「本当に?」
「……はい……ああ、だけどそうだな」