四話
とっさに出た名前だった。
別に考えて出した名前ではない。その単語が単に一瞬自分の頭の中に駆け巡っただけなのだ。
「由布か……」
晴信が一度その名前を繰り返す。
景虎はその晴信の様子を見て、晴信に悟られぬようごくりと唾を飲み込む。
すると晴信は最後の茶をずずっとすすり終え、
「良い名だな」
と一言だけ言った。
その一言に、景虎は完全に呆気にとられた。
別にそう言われても何とも思わないはずだ、自分の名ではないのだから。
だが、驚いた。
そうずっと景虎は驚いている。
戦場でしか会えぬ筈のこの男が、このような男だと知ってからずっと。
戦場での冷静沈着さ、豪快な槍さばきに剣づかい。
どれも今の晴信を見ると想像がつかない。
「ということで」
そこで景虎ははっと現実に引き戻される。
そして目の前には先ほどの着物。
「……何が、ということで、なんですか?」
「名前を知った。見も知らぬ仲ではなかろう」
「仲って! ちょっと、誤解されますから、その言い方!!」
「? 何がだ?」
この男は天然ですか?それとも素でこうなのですか?
素でこうだったらこんな扱い憎い性格はねえぞ!!
と景虎は心で叫ぶ。誰にでもなく。
「あのー、ほんっとーにありがたいのですけど、いりません」
「ありがたいのなら受け取れば良いだろう」
「あのねえ! こんな高いもの安々と受け取れるかっての!!」
「金の事は心配しなくていいぞ、別に。館に帰ればまだある」
「ぐ…!! (ちっくしょー、流石一国の主だな、言う事違うぜ!) いえ、そうじゃなくて……」
「昨日暴漢に襲われていただろう」
ふと昨日の話題をされて景虎は不思議な顔をする。
何故そんなことを今更言い出すのか。
あの話は昨日の事だ。今更持ち出す理由がわからない。
「? ……はい」
だが、言葉は返事だけを返していた。
その先を促すかのように。
「それで我の館に泊まるかという話を断った」
「はあ……まあ」
「わざわざ越後の国から来られたのに、この国の印象を悪くさせたままでは帰らせれぬからな」
「え……」
「だから……まあ、侘びの品だと思って受け取ってくれないか。このままでは我も立つ瀬がない」
そう言われて景虎ははっと周囲を見回す。
と、茶屋の中ではもちろん景虎たちだけではなく、一介の町民、武士、色々なお客がいた。
その者たちは、やはり晴信が茶屋に来るなどは珍しいのかーーましてや女連れだーーこそこそとではあるが、横目で見ている。
景虎は声が小さいとは言いがたい。先ほどの会話も聞かれているのかもしれない。
ということは、ここで顔を立ててやらなければ晴信の面目は丸つぶれということになるかもしれない。
(つか、正直オレとしてはそっちの方がいいんだけどさー)
だが、晴信は今“長尾景虎”に対して自分に接しているわけではない。
ただの一介のどこぞの娘“由布”に対して自分に接しているのだ。
その気持ちを、真っ直ぐな気持ちを……
……どうして無下にできようか。
「……分かりました」
「ん?」
「ありがたく……頂戴致します」
そう言った瞬間、晴信はほっとしたような顔を浮かべ、笑って、そうか、と言った。
「でも」
「ん? 何だ」
「いつか必ずお返ししますから!」
景虎はそう意気込む!
周囲で聞いてた者達はあらら、と苦笑する。
景虎はしまった、と思ってそれに付け加える。
「あの、こんな高価なものは無理かもしれないけど、必ず……何らかの形でお返ししますので」
そう言って、軽く頭を下げる。
他人に頭を下げるのは景虎は元来嫌いである。
だが、ここまでしてもらって下げないのは人間としてどうだろう……と思ったので下げた。
それに今の自分は“長尾景虎”ではなく、“由布”という女性であるという意識の元からか、容易く頭を下げる事が出来た。
その姿を見た晴信は一度だけ目を丸くさせた。
が、景虎が気づかないうちにその目を元に戻し、優しく笑いながらこう言った。
「ありがとう」