三話
「……」
それから数日がたった後、政虎は布団に体を起こし、外を見ていた。
いい天気だった。鳥のさえずりが耳に優しい。
ぼーっと何を考えるでもなく、外を見つめていた。
すると、その視界にすっと人影が見えた。
「由布様、お加減如何ですか? 朝食をお持ちいたしました」
「ああ、ありがとう」
侍女の一人が、政虎に食事を持ってきたらしい。
政虎は、侍女に目をやり、食事に手をつけた。
浅い味付けの粥が胃に心地いい。
「……わたくしの子は、どうしている?」
ふいに政虎は聞いた。
するとその時侍女の体がびくっと震えた。
だがそれに、政虎は気づかなかった。
「お……御子でございますか?」
「ああ。あれから一度も見ておらぬ」
「……あ……由布様は初産だからご存知ないかもしれませんが、母と子というのは生まれてからは当分別室で過ごす決まりがあるのですよ」
そう侍女は言った。
もちろんそんな決まりごとはない。
だが、今まで男として育った政虎は、そんな嘘がわかるはずもなく、そうなの、と一言だけ呟いた。残念そうに。
「ちゃんと、乳は飲んでいますか?」
「え、ええ。乳母がちゃんと見ておりますから。ご心配なさらないでください」
「そう。良かった……」
そう、微笑んで言う。
その微笑みは美しかった。
涙が出るほどに美しかった。
侍女はその笑顔を見て、いてもたってもいられなくなったのだろう、震える声で、
「で、では私は失礼致します! 後ほど取りに参りますので」
と言い残し、慌ただしく政虎の部屋から逃げるように消えていった。
政虎は、そんな侍女の行動に不信感も抱くことなく、幸せそうな顔でまた外を見つめた。
ああ、信玄に文を書こう。
子供が生まれたと。
おのこだったと。
乳をいっぱい吸う元気な子だと。
ーーーー信玄とわたくしの、大切な可愛い子だとーーーー
そんな事を楽しそうに考えながら、また粥を口に運んだ。
そしてまた数日が過ぎ、政虎はもう出歩けるようになっていた。
まだ下腹部に少し違和感があるが、歩けないほどではない。
今日も天気がいいので、庵の外に少し出てみようか。
文も届けさせないといけない。
そんな事を考えながら、政虎は自分の部屋を出た。
「……です!!」
すると声が聞こえた。
何だか言い争っているような雰囲気だ。
何だろう?と思って政虎は声のする方に足を進めた。
姿が見えるか見えないかのところで、政虎は足を止めた。
止めるつもりはなかった。だがその言葉に足を止めずにはいられなかった。
「もう、由布様に隠し事をするのは無理でございます!!」
そう、聞こえた。
政虎は物陰に隠れて、そっとその人物を見た。
あの娘だった。
いつも食事を運んでくれる可愛い顔をした娘だった。
「もう、私には、私には隠せません!!」
必死な声で、そう言った。
いや、泣いている。
何故泣いている?
隠し事?
何なのだ?一体。
そう思っていたら、勝手に体が前に出ていた。
そして目が合った。
侍女ではなく、その侍女が話している相手と。
「由布!」
その者は声をあげた。
よく、見知った顔だった。
当然だ。
それは政虎の母であったのだから。
「由布様!!」
侍女もその声に気づき振り向く。
その顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
そして政虎の姿を見るなり、申し訳ありませんと、土下座をした。
何がなんだか、わからなかった。
「下がりなさい……」
虎御前が、優しく侍女にそう言う。
侍女は、やはり泣きながら立ち上がり、すみませんすみませんと何度も政虎に向かって言いながら、姿を消していった。
そして、その場には政虎と虎御前の二人だけが残された。
「どう、したのです」
政虎が、そう訪ねる。
だが虎御前は目を伏せたまま何も語らない。
「何を、隠しているのですか……?」
政虎は、また訪ねる。
だがやはり、虎御前は何も言わない。
ただどんどんと虎御前の顔に苦痛の色がにじみ出ているのが分かった。
そして、嫌な予感がした。
何かは分からない。
ただとてつもない不安感が政虎の心の中を占拠していった。
そうすると、ふと全てが不思議に思えた。
母は子が生まれてから一度も政虎に会いに来なかった。
子をあれから一度も見ていない。
そう、産み落としたあの日から。
一度も、一度も見ていないのだ。
この庵の中で、赤子の声を聞いたことがあるだろうか?
いや、ない。




