一話
『我の子を、産んでほしい』
あの時から、ずっと、ずっと頭の中から離れない。
信玄の、その言葉が。
政虎は、布団の中から空を見上げていた。
一年の休戦の約束から、数ヶ月がたった。
上杉の家臣たちのその事を報告すると、中には不機嫌そうな顔をするものもいたが、大体の者は安堵な笑みを浮かべた。
それほどに武田の脅威が一年だけとはいえ無くなるのはありがたいことだったのだ。
そして今、政虎は小さな村に居た。
政虎は、休戦が決まってすぐに家臣たちに軍を離れることを話した。
ほとんどの家臣たちはその言葉に驚きを隠せなかったが、景綱は何も言わなかった。
正直に、政虎は自分の体調が悪い事を皆に話した。
もちろん、それが妊娠による事だというのは語らなかったが。
一年の間、武田は攻めてこない。
北条は確かに脅威の存在であるが、それは武田も同じく思っている。
上杉と武田が北条を制していれば、政虎一人が軍を離れても負けることはまずないだろう。
景綱のそういった説得の甲斐もあり、家臣たちは渋々ながらも頷いた。
政虎は、景綱にのみ自分の庵の場所を教え、軍を離れた。
庵には、時々景綱が見舞いにくる。
だが、もちろん政虎は景綱には会わなかった。
自分の正体を知らない侍女たちに、気分が優れないので会えないと伝えて欲しいと予め言っておいたからだ。
いくら庵を教えたと言っても、とてもではないが今の政虎の姿を見せることはできない。
もう政虎の腹は、大分大きくなっており、どう見たって腹の中に何かがいるのは分かりきっていることなのだから。
景綱にそんな姿を見せたら、泡を吹いて倒れてしまうだろう。
いくら北条の脅威が二分化されているとしても、今この状況で政虎だけではなく景綱まで居なくなったら、上杉は耐えられない。
侍女に、今日も景綱様がいらっしゃいましたよと聞くたびに、政虎はそうか、とだけ返した。
だが心の中では景綱に対する裏切りの思いで心を痛めていた。
(今更、オレが女だって言っても、景綱は別にオレに就くのを辞めはしねぇだろう。だけどなあ……)
そう、きっと景綱は政虎を女と知っても、驚きはするだろうが軽蔑するようなことはないだろう。
だが、問題はそこではなかった。
子がいるのだ、腹の中に。
その父親を誰かと問われて、答えれば……
いくら景綱とて、自分を軽蔑するだろう。
敵と通じていたと思われても仕方がない。いや、そう思わないほうがどうかしている。
そう考えると、とても政虎は口に出来なかった。
政虎はふぅっとため息をつく。
そしたら少し、腹からどんっと音がした気がした。
腹の中の子が、蹴っているのだろう。
そう思うと、少し可笑しくなって、ふふっと笑みを零した。
「由布様、お母上様がお見えでございます」
侍女が、廊下に膝まずいてそう言った。
政虎は顔を綻ばせ、その人物を向かい入れた。
「調子はどうですか、政……いえ、此処では由布、でしたね」
「……母上……」
そこに姿を現したのは、政虎の母、虎御前だった。
もちろん侍女たちはこの女性が虎御前であるとは知らない。知っていたら政虎の正体だって分かってしまうだろう。
侍女たちは、ただ、どこかのお姫様がお忍びで子供を産むのだろう、と思っているだけなのだ。
虎御前は、そんな侍女たちを下がらせて、政虎に向かう。
「良かった、変わりはないようですね、由布。安心しました」
「いえ。しかし、申し訳ありません。母上にはご迷惑をかけてばかりで……」
そう、この庵を手配したのは虎御前だ。
第四次川中島の戦いが始まる前まで、顔を合わさなかった二人だが、休戦の話が虎御前の耳に入ると、すぐさまこの庵を用意してくれた。
子を、無事に産めるように、と。
政虎は驚いたが、母のその気遣いに涙が出そうなほど嬉しくなった。
やはり、自分が最後に頼れるのはこの母なのだと。
政虎は母に向かってにこりと笑い、大事そうに腹を撫でた。
「随分と、大きくなったものですね」
「はい。時たま腹を蹴るのです。元気な子なのですね……男の子かな」
そう笑って、母の顔をした政虎は語る。
その政虎の顔を見て、虎御前は目を少しだけ険しくした。
だが、政虎は気づいていなかった。
「……そのような、顔を……」
「え?」
くぐもった声で、虎御前が呟く。
政虎は聞き取れなかったらしくて、腹を撫でながらも顔を虎御前の方へ向ける。
だが、虎御前は笑顔に戻り、
「いいえ、何でもありませんよ」
と答えただけだった。
政虎はその母の笑顔を見て、またにっこりと笑う。幸せそうに。
「わたくしが、母になれる日が来るとは思いませんでした」
政虎が、静かにそう口にする。
幸せそうに、腹に目をやって。
その顔は、毘沙門天の化身と言われた上杉政虎のものとはとても思えなかった。
ただの、幸せな母の顔、だった。
「でも」
「どうしたのです?」
「母になるということは、幸せな事なのですね」
と、政虎は声に出した。
虎御前は表情を変えない。ただ、どうして?と言う代わりに、首を少し傾げた。
「女である以上、やはり母になるというのは、夢ではないでしょうか。わたくしは……今までそんな事、分からず生きてきましたが、今は分かる。幸せだ……」
政虎は微笑みながら語る。
虎御前は、その微笑をじっと見つめながら、答えた。
「そう、ですね。わたしもそなたや春景を産んだ時は、とても幸せでした。いえ、産む前から……そなたらが腹に宿ったと知った時から。ふふ、そなたらの父の子を産めるという事が既に幸せだったのかもしれぬ」
「……そうですね……分かります、今なら」
虎御前の言葉に、慈しむように声を出す政虎。
本当にそうだ、愛おしい男の、子を産めるということは、こんなに幸せなのだなと、心の中で思った。
例え、その相手の名前を誰にも言えなくとも。
その人の子を、手放してしまうことになっても。
あの人の側に、この子がいるならいい。
政虎はそう思っていた。
「……」
虎御前は政虎を見る。
じっと、温かい目で、時に鋭い目で、上から下までじっと見つめる。
そして、ふいに立ち上がった。
「母上?」
「ふふ、元気そうで安心しましたよ、由布。母は少し用事があるので、早いですが、もう失礼しますね」
そう言って、虎御前は、元来た廊下を歩いて、帰っていった。
政虎は少し不思議に思ったが、こんな短時間でも自分の様子を見に来てくれた母に対して、嬉しさと有り難さを感じ、心の中で礼を言った。
そして、もう一度大切に大切に腹を撫でる。
まるで菩薩のような微笑で。
虎御前は、政虎の部屋を出て、少ししたところで立ち止まった。
そしてわなわなと震えている自分の左手を、やはり震えている自分の右手で押さえつけた。
「あんな……」
ぎりっと右手の爪が左手に食い込む。
あまりにも強く握っているため、血が出ているが、そんなこと虎御前は気にしない。
もっともっと力を込めて、自分が倒れてしまわないように支えていた。
「あんな、顔をする、なんて……」
そう誰にともなく、言った。
廊下には虎御前の流した血が、一滴だけ残っていた。