九話
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
(………………居心地悪っ!!)
何故自分の本陣でこんなにも窮屈な思いをせねばならぬのか。
しかも話がしたいと言いながら、信玄は先ほどから黙ったままである。
(畜生……何なんだ、一体!? ジジイもジジイだ! 何かほら、気を利かせればいいのに!! 酒持ってくるとか!)
と、心の中で景綱に八つ当たりをする政虎。
だが、そんな事を思ったところで景綱が戻ってくるわけでもない。
苦虫を噛み潰したような顔をして政虎は本陣に居座り続けた。
「政虎」
ふと、信玄が零す。
最初声が小さすぎて、政虎は空耳か?と思ったが、もう一度信玄が、政虎と名を呼んだので、ああ呼んでいるのかと分かり、少し深呼吸をして答えた。
「何だ?」
「一年というのはお主のために作った時間だぞ」
「は?」
唐突な、話の見えない話をいきなり始められて、政虎は目を丸くする。
一年と言うからには、きっと先ほどの休戦の話であろう。
だが、何故政虎の為なのか。
その言葉の意味に首を捻った。
が、分からなかった。
「お主」
「あ?」
「子が居るだろう」
「ぶっ!!」
信玄の遠まわしも何もしない言葉に、思い切り驚き、思わず咽る政虎。
別に何も食べても飲んでもいないのに、よく咽れるなと自分でも思った。
だがその言葉自体に咽た。
驚いた。
バレたとは思っていたが、まさかこんな直球勝負に出られるとは。
何と答えたらいいだろう。
政虎は少し、いや、かなり困った顔をして黙り込む。
否定しても仕方がないだろう。
もう、確信しているのだから、信玄は。
「一年あれば子は生まれる」
そう、静かに言う。
だがその言葉に政虎は呆気になって、言葉を漏らした。
「産め、と?」
そう、一言だけ。
言うつもりはなかったのだろう。
だが、気づいたら口から零れていた。
信玄はそんな政虎を見て、普段なら笑い飛ばしそうな顔の政虎を、今日は笑わずに真剣な顔で言う。
「我の子なのだろう」
「……」
政虎は答えなかった。
それは肯定を意味したからだ。
「我の子を、産んでほしい」
そう、一言だけ、はっきりと、信玄は言った。
「は、ははは……な、何言ってんの……」
政虎は、力なく笑った。
「産めるわけ、ないだろう……」
泣きそうな声で、呟いた。
「一騎打ち、して……どっちかが死ねば……何の問題もないって……思ってた……オマエが死んだら……腹の中の子は父を知らずに、育てばいい……オレが死ねば……子も死ぬだけだ……」
聞かれてもいないのに、どんどんと政虎の口から言葉がこぼれる。
その言葉は震えていて、目から雫はこぼれていないけれど、心は土砂降りの雨状態に泣いていた。
「そう思ったのに……何でどっちも生きて、んだ……?」
信玄はその言葉を聞いて、ぎりっと奥歯を強く強く噛んだ。砕けるほどに。
そして呻くような声で、もう一度だけ呟いた。
「産んで……ほしい」
と。
政虎は愕然とした顔をした。
産んで欲しいといわれた。
自分は子を成す事などないだろうと、元服した時から思っていた。
女である事など忘れて、本当に自分は男だと思って、生きてきた。
それを全て崩したのはこの男だった。
自分を女に戻したのは、この男だった。
自分を弱くしたのも、この男だ。
「産んで、どうすんだよ。育てられるわけないだろ!?」
政虎が声を荒げる。
泣きそうな声なのはやはり変わらない。
そんな政虎の顔を逃げずに、しっかりと正面から受け止める信玄。
「我が育てる」
「は!?」
予想外の言葉だった。
そう言われるとは思わなかった。
「戦事には絶対に使わない。ただ、そなたの子が欲しいだけなのだ!」
そう言って、信玄は立ち上がる。
政虎は立てなかった。その場から動けなかった。
何を言っているんだろう、この人は、と。
それだけ思っていた。
「どこか小さな町で育てよう。男でも女でもいい。そなたの子が……」
そう言って、政虎を抱きしめる。
強く、優しく、震える手で。
「我と、そなたの子が……欲しいのだ」
そう言って、着物の上から政虎の腹に口付けをする。
政虎はびくっと少し仰け反ったが、そんな信玄の頭を優しく、ゆっくりと、怖々と抱いた。
どれだけそうしていただろう、分からない。
だが、そのうち信玄の方から離れていった。
政虎は、そんな信玄の背中を見ることも出来ずに、やはり座ったままで目を腹の方へと向けていた。
信玄は、本陣の隅に置いてあった自分の刀を手にし、本陣の入り口まで歩いた。
そして、振り返らず、小さな小さな声で、
「もし、そなたとーーーー」
そう言い残して本陣から信玄は消えていった。
本陣の外が少しざわつく。信玄が外に出たからだ。
政虎は本陣の中に一人で、座っていた。
動くことができなかった。
最後、彼は何と言ったのだろう。
そう思ったけれど、聞こうと話しかけることも出来なかった。
政虎は先ほどまで抱きしめていた、信玄の髪の感触を手で探そうとしていた。
だが、もちろんもう信玄は居ない。
髪の感触も、ない。
それでも政虎の腹には、暖かい何かがまだある気がした。
信玄の口が触れた、そこに。
『我の子を、産んでほしい』
その信玄の言葉が、何度も何度も政虎の頭の中を反芻した。