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越後の龍と甲斐の虎~異聞伝~  作者: カイル
狂運
21/38

六話

「……撤退する」



ぼそっと信玄が呟く。

だがそれを皆聞き取ったのだろう、逆らうものは居らず、はは!と皆撤退の準備を始めていた。

上杉方も家臣も、武田方の家臣も、誰も異論を唱えることは出来なかった。

もちろん、まだ地面に尻をついたままの政虎も。


信玄はふうっと一度長いため息をついた後、政虎のほうに目を向ける。



「政虎殿、水を差して済まない。だが今回は……」

「ぐっ……!!!」



信玄が言葉を発している途中、政虎は再びの嘔吐感に、口を手で押さえた。

その様子を見て、信玄は目を丸くさせた。



「ぐ……ぐえっ!!」

「お、おい。大丈夫か!」



敵に対して大丈夫もないだろう。そう政虎は思った。

信玄は手を政虎に伸ばす。

だが、政虎はその手を思い切り振り払った。

その顔は、怒りでもなく、悲しみでもなく、ただ怯えていた。

まるで怯えた子供のような顔を、していた。



「え……」



信玄は呆気にとられた。

このような顔をした政虎を、初めて見たからであろう。



「げほっ!!! げほげほっ!!!」



政虎は耐え切れなくなったのだろう、胃のものをその場にぶちまけた。

上杉の家臣たちは、一斉に政虎に近寄ろうとした。

だが、それを政虎は手でばっと制した。

すると面白いほど同時に、皆がぴたっと体を前に出すことをやめた。



「はぁはぁはぁ……ぐぅ……っ!! はぁ…………」



嘔吐は治まったのか、はあはあと肩で息をしながら政虎は口を拭く。



「……まさか……」



ぼそりと、すごく小さな声で信玄が呟いた。

その言葉にびくっと肩を強張らせた政虎は、ゆっくり、ゆっくりと、だが確実に信玄の顔に目をやった。

今まで、見たことのない顔だった。

どう表現していいのかわからない。

何と言う顔なのだろう。

辛くも、悲しくも、楽しくも、面白くも、残虐とも、どんな表情とも言い表せぬその顔を政虎は見つめた。



「そ、そなた……」



信玄の、言葉が震える。

それを聞いて、ばっと政虎は立ち上がる。



「撤退だ!」



政虎は不意にそう家臣たちに告げる。

家臣は驚きを隠せず、おろおろと狼狽する。

その狼狽する家臣たちに向かって、もう一度政虎は声を荒げる。



「撤退だと言っている! 今回の勝負はなしだ! とっとと退けぃ!!」



その言葉で渇が入ったのか、家臣たちは皆一様に、はは!っと声をあげ、撤退準備を始めた。

馬の蹄の音で騒がしい喧騒の中、未だ肩で息をする政虎と信玄だけがその場に残っていた。

くるりと政虎は信玄の方へ向き直る。

その目は、殺気を帯びていた。

これ以上ないほどの殺気と眼力で、信玄をぎりっと睨み付けた。

信玄は、その目をしかと正面から見据え、受け止めた。

そして、深く歯軋りをし、政虎に背を向けた。



「政虎殿」



そして歩みを止めることはなく、政虎に話しかけた。



「この度は我が家臣が無粋な事をした。この侘びは、必ず返す」



と、それだけ言って、自分の愛馬にまたがる。

そして、馬上から一度だけ政虎を見た後、くるりと背を向け、走り去っていった。


政虎は、そんな信玄を見て、自分も愛馬にまたがる。

そして、はっ!と馬の脇を蹴って、颯爽とその戦場から去っていった。




ーーーーバレた。




心の内でそう呟きながら。

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