六話
「……撤退する」
ぼそっと信玄が呟く。
だがそれを皆聞き取ったのだろう、逆らうものは居らず、はは!と皆撤退の準備を始めていた。
上杉方も家臣も、武田方の家臣も、誰も異論を唱えることは出来なかった。
もちろん、まだ地面に尻をついたままの政虎も。
信玄はふうっと一度長いため息をついた後、政虎のほうに目を向ける。
「政虎殿、水を差して済まない。だが今回は……」
「ぐっ……!!!」
信玄が言葉を発している途中、政虎は再びの嘔吐感に、口を手で押さえた。
その様子を見て、信玄は目を丸くさせた。
「ぐ……ぐえっ!!」
「お、おい。大丈夫か!」
敵に対して大丈夫もないだろう。そう政虎は思った。
信玄は手を政虎に伸ばす。
だが、政虎はその手を思い切り振り払った。
その顔は、怒りでもなく、悲しみでもなく、ただ怯えていた。
まるで怯えた子供のような顔を、していた。
「え……」
信玄は呆気にとられた。
このような顔をした政虎を、初めて見たからであろう。
「げほっ!!! げほげほっ!!!」
政虎は耐え切れなくなったのだろう、胃のものをその場にぶちまけた。
上杉の家臣たちは、一斉に政虎に近寄ろうとした。
だが、それを政虎は手でばっと制した。
すると面白いほど同時に、皆がぴたっと体を前に出すことをやめた。
「はぁはぁはぁ……ぐぅ……っ!! はぁ…………」
嘔吐は治まったのか、はあはあと肩で息をしながら政虎は口を拭く。
「……まさか……」
ぼそりと、すごく小さな声で信玄が呟いた。
その言葉にびくっと肩を強張らせた政虎は、ゆっくり、ゆっくりと、だが確実に信玄の顔に目をやった。
今まで、見たことのない顔だった。
どう表現していいのかわからない。
何と言う顔なのだろう。
辛くも、悲しくも、楽しくも、面白くも、残虐とも、どんな表情とも言い表せぬその顔を政虎は見つめた。
「そ、そなた……」
信玄の、言葉が震える。
それを聞いて、ばっと政虎は立ち上がる。
「撤退だ!」
政虎は不意にそう家臣たちに告げる。
家臣は驚きを隠せず、おろおろと狼狽する。
その狼狽する家臣たちに向かって、もう一度政虎は声を荒げる。
「撤退だと言っている! 今回の勝負はなしだ! とっとと退けぃ!!」
その言葉で渇が入ったのか、家臣たちは皆一様に、はは!っと声をあげ、撤退準備を始めた。
馬の蹄の音で騒がしい喧騒の中、未だ肩で息をする政虎と信玄だけがその場に残っていた。
くるりと政虎は信玄の方へ向き直る。
その目は、殺気を帯びていた。
これ以上ないほどの殺気と眼力で、信玄をぎりっと睨み付けた。
信玄は、その目をしかと正面から見据え、受け止めた。
そして、深く歯軋りをし、政虎に背を向けた。
「政虎殿」
そして歩みを止めることはなく、政虎に話しかけた。
「この度は我が家臣が無粋な事をした。この侘びは、必ず返す」
と、それだけ言って、自分の愛馬にまたがる。
そして、馬上から一度だけ政虎を見た後、くるりと背を向け、走り去っていった。
政虎は、そんな信玄を見て、自分も愛馬にまたがる。
そして、はっ!と馬の脇を蹴って、颯爽とその戦場から去っていった。
ーーーーバレた。
心の内でそう呟きながら。




