二話
「……おい? 大丈夫か?」
「うひっ!?」
目の前の男が、いきなり自分の顔を覗き込んでいる。
先ほどまで景虎が凝視していた筈の男は、何時の間にやら自分のすぐ目の前まで来ており覗き込むように景虎の顔を見ていた。
男は他意があったわけではなく、ただ景虎が無事がどうかを確かめたかっただけなのだが、その景虎自身の素っ頓狂な声によって男は驚き身をびくっと後退させてしまった。
「……うひ?」
「え、あ、い、いや!! ちょ、ちょっとびっくりして!!」
我に返った景虎は、声を裏返らせながらそう弁明をする。
弁明をする姿も何か可笑しいが、そんな姿を見て男は安心したのか、ふっと笑みを零す。
「そうか。まあ無事ならいい。この頃あのような輩が多くてな。見回っているのだが……」
そう男が話しているのを気もそぞろに聞きながら、景虎はまだ先ほどの事を考えていた。
そうすると自然と耳に町人たちの話が聞こえてきた。
それはボソボソと噂話をするかのような小ささで。
普段なら聞き取れないかもしれない、だが景虎はその時確かに聞こえた。町人が「武田様だわ」と言っているのを。
(武田様? ……武田ってあの武田? ん? ……あれ、じゃあ、待てよ。え、じゃあ、コイツって……)
「武田晴信?」
ボソっとだが確実に景虎は声を出してその言葉を言った。
その言葉を聞き、目の前に居た男は目を丸くして景虎の方を見る。
「な……! 晴信様を呼び捨てにするとは!! 無礼ではないか!」
言葉を発したのは景虎でも晴信でもなく、晴信のお付きの一人だった。
その言葉を聞いて、景虎は初めて自分が“武田晴信”の名を口に出して言ったのだと自覚した。
「え、あ、いや! その……す、すみません! つい口から出てしまって……」
と言い訳にもならない言い訳を咄嗟に口走る景虎。
その言葉を聞いて付き人は余計に気分を害したらしいが、当の晴信はふっと笑ってそれを制した。
「別に構わない。我が武田晴信なのは間違いないのだし。お前等もそれくらいでいちいち声を荒げるな。おなごに対して失礼だろう」
(あ、そうだ、オレ今女装してんだ)
そんな晴信の言葉を聞いて、景虎は今の自分の状況を思い出す。
そういえばそうだった、自分は今女装していたのだ。
だからなのだ、彼が気づかないのは。
武田晴信が、長尾景虎だと気づかないのは。
もし自分が今普通の格好なら、いつも自分がしている格好のままいたら、彼はとっくの前に気づいていただろう。
何せ二度も対決しているのだ、この景虎と。
お互いが直接刃と合わせた訳ではないにしても、二度も戦い、そして勝敗はつかなかった。
その憎き相手を分からないなど、よほどの事がなければないだろう。
……と言っても、景虎自身は気づいていなかったが。
(あーそっか、どっかで見たと思ったら晴信かぁ。そりゃ見たことあって当然だよなあ)
そう言葉には出さず一人ごちる。
そんな自分の頭を軽くげんこつで叩く。
どうかしている、と一言心の中で言って。
「……あるのか?」
「え?」
晴信に話しかけられ、景虎は思わず声を返す。
晴信はその様子の景虎を見て、やれやれと言った風に苦笑する。
「聞いていなかったのか? お主、今日はもう日も暮れる。泊まるあてはあるのかと聞いたのだ」
「え……ああ、泊まるあてか……」
もちろん、ない。
先ほどこの町に着いたばかりの景虎だ、今から宿を探すのだ。
だが、先ほどの騒ぎで町人は何だかよそよそしいし頼みづらい。どうしよう、今日も野宿かなと思っていた矢先、晴信が口を挟める。
「ないようだったら、我の館に泊まるか?」
「へ?」
我ながら素っ頓狂な声を出した、景虎はそう思った。
あまりにも想像だにしない申し出だったからだ。
とてもありがたい。かなりありがたい。いっそ世話になってしまいたい。
が、
「い、いや!! それはやばいだろ!?」
と、返事をする。
晴信をはじめ、お付きの者は不思議そうな顔をする。
確かに一国の主の家だ、泊まるなどとはおこがましいと思う者もいるかもしれない。
が、もちろん景虎の考えはそんなものではない。
(敵の大将の館に泊まれるわけねえええ!!)
が本音である。
もちろん晴信は今目の前にいる女性が景虎だとは思っていないだろう。
だが、どこで本当の事が分かるか知れたものではない。
景虎は冷や汗をかきながら必死に断り続ける。
「いや、あの嫌ってわけじゃねえよ!? たださ、やっぱあれじゃん! うしろめた……あ、いやいや、身分違い……あれ? そういうのじゃなくて、いや、だからさオレ……」
「オレ?」
「はっ!! (しまった、今オレは女女、普通の女!!) い、いえ……やはり気が落ち着きませんというか……申し訳ないですわ、武田様のお世話になるなどと……」
「別にそのような事、気にしなくても良いぞ? 困っている時はお互い様だろう」
いや、それはいい言葉だけど、オレが困ってんのはオマエの存在ですから。
とはもちろん言えず。
「い、いえ……正直申し上げますと、わたくし今日はもうかなり疲れまして……人様の家でお世話になってしまったりしたら、心が落ち着きませんので……」
と言葉にする。
その言葉にまた付き人が何か口を出そうとするが、晴信はそれを制し、
「そうか。ならば仕方がないな。では宿を紹介しよう。それくらいはさせてもらえないか?」
そう晴信は提案する。
景虎はほっと一息ついて、
「ええ。それならばお言葉に甘えます、武田様」
とにっこりと、自分でも上手くいったなーと思うくらいの笑顔を晴信に向けた。
そして宿に付いてから、景虎はふーっと肩に乗りかかった石のような重たい気分を取り払った。
「まっさか、晴信に会うとはなぁ……」
甲斐の国に入ってから、もし会えたら面白いかもなーと思っていた景虎だが、いざ会うとどうしていいものか分からない。
別にここで殺そうとかは思わないし、放っておけばいいのだけど。
「ちっ、でも助けられたってのがなー……すげえ嫌」
きっと放っておいても景虎ならばあの程度の輩倒せたであろう。
だが、晴信から見ればただのどこぞのお嬢様。確かに一国の主として助けないわけにはいかない。
それが景虎には面白くないのだ。
それは当然である、何と言っても宿敵武田晴信。その男に知らずも借りを作ってしまったことになったのだから。
「ま、いっか、どうでも」
そう、どうでもいい。きっともう会うことはないのだろうし。
何となく足が進んで甲斐の国まで来てしまったが、これは仕方がない。もっと東まで足を運んでみようかな。
などと考えているうちに、やはり疲れていたのだろう、景虎はすやすやと眠りに落ちてしまった。
次の日、景虎はいつもより少し遅い時間に目覚めた。
どうも思っていたより疲れていたようだ。
確かに最近は野宿が多かったし、野宿の時は盗賊などに気を張らないといけないため熟睡はできなかった。そう考えると久々にちゃんと休息が取れたな、と思う。
しかも流石一国の主が勧める宿だ、店の娘の接待は良いし、部屋も綺麗でちゃんとしている。布団の寝心地も良かった。
景虎は着物に着替えて、んーと背伸びをする。
すると部屋の外から宿の者が呼ぶ声がする。
「お客さん、その……お客様が来られましたけど」
お客に対してお客が来た。
その言い回しが何となく可笑しくて、景虎はくすっと笑い、一言返事をする。
宿の者は返事を聞いたら、すぐに下に来てくださいねと一言言ってそそくさと階段を下りていく。
しかし昨日この町に来たばかりの自分に客など誰だ?
景虎は不思議に思いながら階段を下りていく。
だがそのような不思議はすぐになくなった。
何故なら……
「ああ、済まないな呼び出して」
ここで知り合った人間など、一人しかいないのだから。