三話
「政虎様!!」
はっと政虎は馬上で顔を起こした。
横で景綱が顔を顰めて名前を呼んでいる。
振り向くと、少し安堵したような顔をした。もしかしたら何度も呼んでいたのかもしれない。
「政虎様、恐れながら少々気をお抜きなのではないのですかな。ここは戦場ですぞ」
「あ……ああ、済まない」
政虎は本当に済まなそうに、景綱にそう言った。
あれから、政虎は城に帰り、心ここにあらずといった感じで軍事を進めていた。
そしてここは川中島。
また、戦が始まる。
武田信玄との戦が。
あれから虎御前とは顔を合わせていない。
政虎も探す事はしなかったし、虎御前が政虎の前に姿を現す事もしなかった。
お互い、避けていたのだ。
会って、何の話をしていいのかわからなかった。
こんな時、女である政虎に頼れる人間は母しかいない。
だが、頼る事はできなかった。
何故なら、腹の子の父親は誰かと聞かれても、政虎は答えられないからだった。
そして軍事をすすめている間に、政虎は一つ提案を考えた。
この戦を終わらせる提案を。
それを今、景綱に口にした。
「景綱」
「何でございますか、政虎様」
「オレは、武田信玄に一騎打ちを申し込もうと思う」
そう、景綱に告げる。
景綱は、はあ!?と大声をあげた。
だが、今は移動中、他のものがばっと景綱に目を向けると、景綱は口を押さえて、何でもないと他の者に伝える。
そして耳打ちで、政虎に言う。
「なっ! 正気でございますか、政虎様!」
「ああ。何でそんなに驚く? 別に一騎打ちなんて珍しい事じゃねえだろ」
「それはそうでございますが。政虎様、まだご体調が優れぬのでは?」
「……大丈夫だ」
景綱はもちろん政虎の体を心配してこの台詞を言ったのだが、政虎は少しムッとして言葉を返した。
景綱は、もちろん政虎の腹の中に子供がいるなどとは思ってもいない。
当然だ、景綱は政虎を男だと思っているのだから。
景綱はまだ何か言いたそうだったが、そんな政虎の態度を見て、言っても無駄と判断したのか、口を噤んだ。
「我等、政虎様の家臣でございます。政虎様の言う事には反する事ができません」
景綱はため息を漏らすように呟く。
誰にも聞こえないようにしたのは、景綱の優しさであろう。
「ですが、それならば今回この景綱は政虎様と別行動を起こさせてもらいます」
「何?」
政虎は少し驚いた。
今まで直江景綱というこの男は、常に政虎の隣にいた。
幼い頃から、ずっとずっと隣にいた。
そう、自分の片腕として。軍師として。
その景綱が別行動を取る、と言ったのは初めてであった。
「そんなに気にくわないか、一騎打ちが」
「そうではありません。ですが、一騎打ちの最中、もしや攻め入ってくる馬鹿がおるかもしれぬでしょう? その対処にございます」
「……」
大将同士の一騎打ちの間は、その両名に手を出す事も許されず、進軍しあう事も許されてはいない。
だが、近年その取り決めは崩れ去ろうとしていた。
一騎打ちの間は周囲に気を使うことが減るため、隙が出来る。それを好機と、狙う輩が増えてきているのだ。
景綱はそれを予め見通して別行動を名乗り出たのであろう。
「……」
「心配召されるな。決して我等から武田軍に手出しはしませぬ」
「まことか」
「はい。それとこの景綱の代わりに、政虎様の隣には景家を置きましょう。彼ならば政虎様も安心でしょう?」
「ふむ、景家か。いいだろう」
景家とは、柿崎景家のことである。
政虎の父の代から長尾家に仕えている、古参の家臣の一人である。
政虎も、景家には信頼を寄せていた。
「では一騎打ちの書状は景家に持っていかせましょう」
「ああ」
「……政虎様」
「うん?」
「後武運を」
「……ああ」
それだけ言って、二人は別れた。




