二話
「母上!」
「おお、政虎! 元気そうで何よりです」
「ありがとうございます母上。しかしいかがされたのです。来られるというのならこちらから共を出しましたのに」
「いいえ、そのようなこと。戦準備で忙しいのですから、そなたに手をかけさせられませんよ」
そう言って、虎御前はにこりと笑う。
政虎は何となく安堵し、母の前に座る。
「して、この度はどうしたのです?」
「ふふ、そなたがあまりにもこの母を春日山城にと呼ぶものですから、来てしまいましたよ」
その言葉を聞き、政虎はぱあっと顔を明るくする。
「そうですか! ついに決断してくださいましたか! この政虎、母上の事だけが気がかりでした。良かった、決断してくださって……」
そう言って、本当に嬉しそうに笑みを浮かべる。
こう見てしまえば、政虎もただの人の子。
毘沙門天の化身などと呼ばれてはいるが、ただの人の子なのだ。
「ええ。そなたの熱意にこの母も動かされました。しかし……随分と慌しいのですね? また戦が始まるのですか?」
虎御前は少し悲しそうな顔をして言った。
その顔を見て、政虎は少し顔を暗くさせたが、真っ直ぐ母と向き直り言った。
「はい。また直ぐにでも武田は攻めて参りましょう。三度やっても決着がつかなかった。皆、今度こそはと力をいれているのです」
「そうですか……」
政虎のその真っ直ぐな目に、少し笑みを浮かべた虎御前。
政虎も母のその笑顔を見て、ふっと笑った。
「政虎、武田信玄殿とはどのような武将なのです?」
唐突に、そんな事を聞かれ、困った。
別にどうという訳ではない、母が武将の事を聞くのは珍しい事ではなかった。
だが、この時一瞬だが、政虎の脳裏にはあの一夜の逢瀬が掠った。
それを忘れるように、ぶんぶんと頭を振るった。
「信玄……殿、ですか。そうですね、やはりこの国随一の知将と言われるだけあります。正直知恵の深さにはオレでは太刀打ちできません。ですが…………」
そこまで言って、政虎は言葉を止めた。
別に言葉につまったわけではない。
信玄との事を思い出したわけでもない。
ただ、止められずにはいられなかったのだ。
「ぐっ……」
「政虎? どうしました?」
「い……え……ぐぅ!! す、すみませ……!!!」
そこまで言葉を発して、政虎は走って庭のほうへ向かった。
そして庭に向かって、ぐえっと嘔吐をした。
その時、廊下に誰も居なかったのは幸いと言えただろう。
「ぐぇ……! げっほ……げほ!!! ぐっ……」
「政虎!? 政虎! どうしたのです、政虎!!」
走り寄ってきた虎御前がとても心配そうな声で話しかける。
政虎はその虎御前を手で制し、大丈夫ですと小さい声で漏らす。
嘔吐が治まった政虎は、ふうと一つ息をつき、すみません、と虎御前に言い、部屋の中に戻った。
それに続いて虎御前も政虎の後から部屋に入る。
「すみません……無様なところをお見せしました」
「いえ……少し驚きましたが。政虎、そなたどこか悪いのではないか?」
虎御前が心配そうに詰め寄る。
政虎は、少し笑ったが、上手く笑えていなかったのかもしれない、虎御前はもっと心配そうな顔をした。
「いえ、最近少し体調が優れぬのです。あまり食欲もないし。ただそれだけなのですが、やはり薬師に一度見てもらったほうが良いでしょうか」
今まで一度もなかった、このようなこと。
だから政虎は少し不安になっていたのかもしれない、虎御前にこう自分の体調の事を漏らした。
「食欲がないのですか?」
「はい。どうも食べ物の匂いを嗅ぐと、気分が悪くなるのです」
「匂いを嗅いだだけで?」
「はい」
そう言って政虎はまた考え込む。
本当に一度もなかったのだ、こんな症状。
自分は何か病気なのだろうか。こんな時に。
そうだ、明日薬師を呼んで診てもらおう。今日のうちに景綱に手配して……
と考えていた政虎だが、ふと視線を虎御前に戻すと、ぞくりとした。
何故なら、その時の虎御前の表情は、今までに見たことがないくらい険しかったからだ。
「母上……?」
「政虎……」
そう言って、虎御前は政虎の手を握る。強く。
政虎は少し痛かったが、とてもそんな事を言える雰囲気ではなかった。
虎御前の手は、少し震えていた。
「だ、大丈夫ですよ、母上! 大したことありません。きっと胃が少しもたれているだけなのです」
「……」
政虎は母を安心させようとそう言った。
だが虎御前の手の震えは止まる事がなかった。
虎御前はか細く、今にも消え入りそうな声で、一言言った。
「政虎…………そなた、月のものは来ておるか?」
そう、一言。
本当に消えそうな声で呟いた。
“月のもの”
その言葉を聞いた政虎は、一瞬でその事が何か理解した。
いくら女を捨てたと言っても、特有の事象に抗う事はできない。
政虎は、母の震える手を見つめながら、思い出していた。
月のものーーーーそれが、最後にきたのは、一体何時だったか?
それを確信して、政虎は青ざめた。
そう、来ていなかったのだ。
三月もの間。一度も。
「……来て、おらぬのだな……」
虎御前は、政虎の表情を見て、悟った。
そして愕然とした表情で、口に出した。
来ていないのだな、と。
政虎は首を振ろうとした。
だが、振れなかった。
今度は政虎の手が震えだした。
がたがたと小さく。だが、確実に。
「誰の、誰の子なのじゃ!」
虎御前が声を大きくする。
その声に、政虎はびくっと体を震わせる。
その姿を見て、虎御前は、はっと手を離した。
「す、済まぬ。大きい声を出してはお腹の子にも触るの。済まぬ……少し……取り乱して……」
そう言って、虎御前は顔を伏せた。
そんな虎御前を見て、政虎は居ても立ってもいられなくなったのだろう。その部屋を飛び出した。
「政虎!!」
後ろから母の声が聞こえたが、振り向く事はしなかった。
政虎は走って走って走って、いつの間にか城を抜け出していたが、まだ走って、誰も居ない森の中まで走っていた。
「……こ、ども……」
森の中で、へたりと膝をついた。
土が着物につくなどとは考える暇がなかった。余裕がなかった。
へたへたとその場に力なく、政虎は崩れ去った。
少し、雨が降ってきた。
だが、雨宿りをしようとも、思えなかった。
そんな事、やはり考える余裕がなかった。
冷たい雫が、政虎の顔を伝う。
『誰の、誰の子なのじゃ!』
母の言葉が胸に突き刺さる。
“誰の子”
そんな事、誰でもない政虎にしか分かる筈がなかった。
そして疑いようもなかった。
「何で……」
政虎は声を押し殺しながら、言った。
「何で……」
少し嗚咽交じりに。
雨はどんどんと酷くなっていった。
「たった……一夜じゃないか……」
雨が政虎の頬を伝って落ちてくる。
そして、違うものも、それに紛れて落ちてくる。
「う……あああああああああああ!!!!!」
政虎は叫んだ。誰にともなく、何処へともなく。
そのまま泥濘の土に頭を投げ出した。
汚れる事など気にならない。
気にする余裕が心にない。
自分はどうすればいいのだ。
どうしたらいいのだ、と、ずっと心の中で思っていた。
間違いなく、この腹の中の子は、
あの宿敵“武田信玄”の子なのだからーーーー




