四話
「……ん……」
目を覚ましたのは、政虎が先だった。
空に目をやると、東の空がうっすらと色づいていた。
「やべ……もう朝かよ……」
だるそうに、そう一言呟く。
体をそっと空と反対の方向へ向ける。
そこには、安らかな顔をして眠っている信玄の顔があった。
信玄の寝顔を見るのはこれで二度目。
だが、あの時は思ってもいなかった。
まさか、こんな状況で彼の顔を見る時が来ようなどとは。
「……くっ」
体を軽く起こそうとする。
もう、戻らないと。夜が明けてしまう。
このまま自分が居ないと分かると、上杉の陣はまた騒動が起こるだろう。
そう、三年前突如国を飛び出した時のように。
ずきりと下腹部に痛みが走る。
顔を顰めて、しかし起き上がろうとする政虎。
だが、つんと軽く髪をひっぱられた。
「……起きたのか」
少し掠れた声がする。
それはもちろん、信玄のものだった。
「ちっ、起きる前に出ようと思ったのに。何でオマエはそんなに聡いんだよ」
「ふっ……」
そう軽く笑って、政虎の髪に口付ける。
政虎はその動作を見て、気恥ずかしくなった。
「……悪かったな……」
信玄は政虎の髪を弄びながら、そう言葉にする。
政虎は意味が分からず首を傾げる。
「何が?」
「まさか初めてだとは思わなかった」
信玄がそう口にする。
政虎は意味がわからない、という風にもう一度首を傾げるが、少したって、その意味を汲み取り、顔を真っ赤にしながら信玄に向かって手をあげる。
が、それは敢え無く信玄に制された。
くくっと笑う信玄。政虎はそんな信玄を見て、ぷいっと顔をそっぽに向ける。
「悪かったな!!」
「悪くはない」
そう呟いて、しかしまだくくっと笑う信玄。
信玄の手はまだ政虎の髪を弄んでいる。
「……悪かったな」
「だから、別に悪くないと言っているだろう」
「そうじゃねえよ。その、オレこんなんだから……女っぽくねぇだろ、体とかもよ。だから……悪かったって……」
顔を真っ赤にさせながら、そう呟く。
信玄はその言葉を聞いて、目を丸くさせたが、政虎に悟られぬよう、優しく笑った。
「そんな事、気にする事でもないだろう」
「気にすんだよ……一応これでも女なんだからよ……オレも」
その言葉を聞いて、政虎の髪を弄んでいた信玄の手が止まる。
政虎は目を少しだけ信玄の方へ向けた。
その時の信玄の顔は、“知将武田信玄”として恐れられている信玄の顔そのものだった。
「一つ、聞いていいか?」
「何」
「お主は何故男のふりをしているのだ」
信玄は知将の顔のまま、問うた。
政虎はその質問に、少し沈黙したが、やがて話しだした。
「……オレんとこさ、兄貴が病弱でよ。いつまで生きられるか分からないって言われてたんだ」
ぽつりと呟く政虎。
政虎の兄、長尾春景は、生まれつき病弱で若い頃に他界している。
今は亡き兄を想うかのように、一つ一つ小さく呟く政虎。
「兄貴……確かに長く生きられなかった。幼い頃からさ、兄貴が家督継ぐのは無理じゃないかって、父上も母上も言っておられたんだ。だから、オレは女だったけど、それを隠して……父上も母上も、オレを跡取りとして育てたんだ」
「……そうだったのか」
「ああ。兄貴には悪い事をしたと思ったけど、そうでもしねぇと長尾家はきっと潰れていただろうからな。だから……オレは別に後悔してない。男として育てられたことも。父上も母上も恨んではいない……」
だが、そう語る政虎の背中は少し寂しそうだった。
そんな政虎を見て、信玄は思わず抱きしめそうになったが、難しい顔をした後に、伸ばした手を引っ込めた。
「ま、オレの事を女だって知ってるのは、今ではもう母上だけだ……いや、オマエにも知られちまったけどな」
そう言って、苦笑する政虎。
そんな政虎を見て、信玄も笑う。
「さて、いい加減帰らねえと。家臣たちが気づいちまう」
そう言って、下腹部の痛みに耐えながら起き上がる政虎。
信玄は今度はそれを止めることはせず、立ち上がる。
そして縁側まで出て行き、政虎がここを訪れた時と同じように、立つ。
壁の手前まで来て、政虎はぴたりと足を止める。
そして一度、信玄の方に振り返り、言った。
「この壁を越えたら、今度こそオレとオマエは敵同士だ」
「ああ」
「ーー容赦は、しねえ」
「我もだ」
そう信玄の言葉を聞いた後、ふっと満足そうに笑って、政虎は壁をなんなく飛び越えた。
政虎が飛び越えた壁の向こう側からは、足音も聞こえなかった。
「……我は幸せ者だな」
政虎が飛び越えた壁に向かって、信玄はぽつりと呟いた。
「本当に好きな女を抱けるなど……本当に、幸せ者だーーーー」




