一話
「……何故お主はそのような所に居る?」
館の縁側で一人酒を飲んでいた男はそうぽつりと呟いた。
館の壁の上に突如現れた、その人影に向かって。
「よう、久しぶりだな、晴……いや、もう信玄か」
「そういうそなたは上杉政虎と名を改めたそうだな」
「あーそうだな。まあどっちでもいいけどよ」
「して、何用だ? このような時刻に。御大将自ら、我の首を取りに来たか?」
珍しく、信玄らしくない口ぶりで話を急かした。
ゆるりと杯を口に運ぶ。
その動作を見て、政虎は顔を軽く顰めた。
「どーしたよ、いつも冷静沈着なあんたが、今日は珍しく心乱れてるんじゃねえか?」
「ふん、敵方の大将が夜更けにここまで入り込んだのだ、見張りの不甲斐なさに呆れているだけだ」
そう言って、杯の中の酒を一気に飲み干す。
その姿を見て、政虎は、ああそう、とだけ言って、懐から一つの簪を取り出し、それを信玄の目の前に投げた。
信玄はその簪を手で持ち上げ、これは?と言葉には出さず動作で政虎に示した。
「いつかの着物の礼だ」
政虎はそれだけ口にする。
信玄は少し驚いた顔をして、もう一度簪に目を戻す。
そこには瑠璃細工の美しい簪が光っていた。
「男に簪?」
ぼそっと信玄が呟く。
政虎はその台詞にうっと呻き、
「仕方ないだろ! 思いつかなかったんだよ! 武器とかやるわけにもいかねぇし、着物返すってわけにも……あれだろ?」
「簪は一度そなたにやった気がするがな」
「あんなん、贈り物と認めねぇ」
すぱっと、少し怖い顔をして政虎が言い放つ。
昔その簪に何が書かれていたか思い出したのだろう、顔を引きつらせて、くそっと一つ呟いて信玄から視線を外す。
そんな政虎を見て、信玄は政虎が庭に来てから初めて笑みを浮かべた。
信玄のそんな顔を横目で見、政虎は少し不服そうな顔をする。
「まあ良い。お主の礼だと言うならば、有り難く貰っておこう」
そう言って、寝具であったからであろう、普段なら懐にいれる筈のそれを信玄は大事そうに布に包んだ。
それを見て政虎は少し微笑した。
「それで、お主はまさかこれだけのために此処に来たというのか?」
「おう」
信玄はまさかそんなわけないだろう、と思って聞いたのだが、政虎の返事は予想外にもその通り、と肯定する返事だった。
信玄は呆気に取られて、もう一度質問した。
「本当に、これだけの為に? 我の館に忍び込んだと言うのか? 見つかれば死ぬというのに」
「おう。いや~ずっと気になってたんだよな~。口約束とはいえ、必ず返すって言っちまったからよー。いつ返そう返そうってこの三年ずっと悩んでたんだぜ、これでも」
そう、あの出会いから三年経った今、景虎だった少年は政虎と名乗り変え、晴信だった青年は信玄と名を改めた。
二人の間には確実に時が流れていっていた。
そして今この川中島で、三度目の上杉軍と武田軍の戦いがまさに進行している最中だった。
その時期にこうして深夜の密会である。信玄からしたらありえないことであり、政虎が何を考えているのか想像だにできない事であったのだろう。
信玄はそんな政虎を見て、目を丸くする。
「……信じれぬ奴だな。何を考えているのかそなたは」
「んー、特に何も考えてねえ」
「大問題だな」
「そうだな」
そう言って、二人でくっと笑いあう。
そうした後、信玄は手元にあったもう一枚の杯をくるっと回して政虎に向かって投げる。
政虎はそれを難なく受け取り、信玄に目を向ける。
「良ければそなたも飲むか?」
そう言って、政虎を招く。
政虎は一瞬迷ったが、くすっと笑って、館の壁の上から庭へとすとんと降り立つ。
そしてゆっくりと信玄に近づいていき、こう言った。
「いーのかよ? オレなんかと酒飲んでてよ。首掻っ切られるかもしれねぇぜ?」
「ふっ、お主がそのような事をする者だとは思わんよ。大体、斬るならとっくに斬っているだろう?」
と、信玄は確信めいたように言う。
政虎はそんな余裕たっぷりの信玄に対して、ちっと舌打ちをする。
信玄はそんな景虎の仕草を笑いながら見ていた。
そして、信玄と政虎は二人で酒を交し合う。
「しかし、そなた変わらぬな」
「何が?」
「三年前と、だ。先ほどは少々大人になったかと思ったが……いや、思い違いだった」
「いや、それ喜べねぇんだけど」
「成長してないという事だろう」
「おまっ……!! あんた、相変わらずムカつくな!!」
「お互い様だ」
そう罵り合いながらも、どこか楽しそうな二人。
信じられるだろうか、合戦の最中に、その大将同士が酒を交し合うなど。
誰も彼も信じられたものではない。このことが家臣に知られたらどうなるだろう、そう思わなかった事もきっとないだろう。
だが、二人は酒を交わしていた。武田の本拠地で。誰にも知られずに。
「そなた、なかなか飲める口なのか?」
「おうよ! 酒なら毎日飲んでもいい。酒にまみれて死にたい!」
「武士にあるまじき願いだな」
「それでもいい、これがオレの本心だし」
そう笑いながら言う。
そんな政虎を見て、信玄も笑う。
今、この時だけは、合戦の事など忘れるように。
お互いの立場など忘れるように。




