長沼弘毅
前頁で述べた通り、長沼弘毅さんはベーカー・ストリート・イレギュラーズに初めて入会した日本人であり日本のシャーロキアンの草分け的な存在と言われています。
【ホームズ研究書】
日本で初めて書かれた本格的なホームズ研究書である『シャーロック・ホームズの知恵』をはじめとして、『シャーロック・ホームズの世界』『シャーロック・ホームズの紫烟』『シャーロック・ホームズの対決』『シャーロック・ホームズの秘聞』『シャーロック・ホームズの挨拶』『シャーロック・ホームズ健在なり』『シャーロック・ホームズの恩人』『シャーロック・ホームズの大学』の以上の九冊が長沼さんが執筆したホームズ研究書になります。
ちなみに、『シャーロック・ホームズの大学』の奥付の長沼さんの肩書きには誤植があるようです。
長沼さんはシリーズ六冊目の『シャーロック・ホームズの挨拶』にてホームズ研究書シリーズの執筆に終止符を打つつもりでしたが、シリーズ七冊目の『シャーロック・ホームズ健在なり』を執筆して、これ以後もシリーズ九冊目の『シャーロック・ホームズの大学』まで書き上げました。
シリーズを再開させた理由について『シャーロック・ホームズ健在なり』の冒頭には、シリーズ再開を望むファンからの手紙などが届いたからだと長沼さんは書いています。
また、『シャーロック・ホームズ秘聞』から『シャーロック・ホームズの大学』までの研究書五冊の装丁を担当していた長尾みのるさんは、長沼さんから『近い中にもう一冊出すから、装幀を頼むよ、ホームズものは君じゃなけりゃ駄目だ』という電話をもらったと語っています。結局、長沼さんは長尾さんに例の電話をして少ししてから没してしまい、シリーズ十冊目のタイトルや内容はまったくわからない状態です。
長沼さんは亡くなる直前までホームズ研究書を執筆していたというわけです。
三上延さんの『ビブリア古書堂の事件手帖II ~扉子と空白の時~』にも登場していた横溝正史の幻の小説『雪割草』のように、シリーズ十冊目の原稿が見つかって出版されれば良いのですが。絶対にシャーロキアン(特に日本の)が興奮し、飛ぶように売れることでしょう。私もそうなることを願いますが、著作権の関係でまだまだ難しそうです。
長沼さんのホームズ研究書九冊のタイトルは全て『シャーロック・ホームズ○○○』のような形であり、これは本家本元である正典の短編集のタイトルの形と同じです。また、長沼さんのホームズ研究書以外のホームズ研究書やホームズのパロディ・パスティーシュのタイトルも『シャーロック・ホームズ○○○』か『ホームズ○○○』などの形のものが多く、正典は後々の小説などのタイトルに主人公の名前を入れるという流れを作りました。
戦後商業出版されたもので翻訳されたものも含めて日本語で書かれたホームズ研究書・解説書のうち『シャーロック・ホームズ』や『ホームズ』とタイトルに入っているものは、私が計算出来る範囲でも百冊を超えました。
つまり、長沼さんのホームズ研究書は『日本で最初に本格的に書かれたホームズ研究書』という称号に加えて、『日本で最初にタイトルに「シャーロック・ホームズ」が入れられたホームズ研究書』という称号まで獲得しているわけです。
また、本格的なホームズ研究書の参考文献を見てみると、長沼さんのホームズ研究書九冊のうち一冊は必ずと言って良いほど載っています。
戦後商業出版されたホームズ研究書の中で一番古いものにも関わらず、未だに参考文献として使われていると言えば長沼さんのホームズ研究書の質がどれだけ高いものなのかわかるでしょう。
長沼さんのホームズ研究書が出版される以前はホームズ研究書はおろか、海外のホームズ研究書の日本語訳もありませんでした。英語が苦手な当時のシャーロキアンにとっては、本格的かつ日本語で読めるホームズ研究書は喜ばれたことでしょう。
【人物像】
1961年に長沼さんは『シャーロック・ホームズの知恵』の抄訳を作り上げてベーカー・ストリート・イレギュラーズの本部に送り、同年8月17日に入会を認める手紙が届き、初の日本人クラブ員になりました。8月17日という日付は同年9月8日『週刊朝日』、同年9月11日『週刊文春』、同年10月号『探偵作家クラブ会報』に記されています。
会員に推薦された切っ掛けは『シャーロック・ホームズの知恵』の各章を抄訳して送ったことだと、『週刊文春』1961年9月11日号『マスコミの眼』に書かれています。その抄訳に掛かった時間は三ヶ月だと、推理小説雑誌『宝石』1961年11月号『忙中忙』には書かれていました。
ホームズ研究の第一人者とも言うべき長沼さんですが、ホームズ研究が本業なわけではありません。長沼さんはホームズ研究とはまったく関係のない、大蔵省(現在の財務省)の事務次官を務めていました。
長沼さんは昭和二十四年に四十二歳という若さで大蔵省事務次官となり、GHQ顧問であるジョゼフ・ドッジを相手に戦後日本の財政再建に尽力しました。また、カミソリ次官という異名を持っていました。
肝も据わっており、長沼さんのあとにベーカー・ストリート・イレギュラーズに入会した日本人である植田弘隆さんは、長沼さんの豪傑なエピソードを語っていました。
長沼さんはアメリカのホームズ・クラブの会員ピーター・ブラウさんに自身の著書を送り、ブラウさんに日本語が読めないから英訳してほしいと言われた長沼さんは『日本語を習って読みなさい』と返したようです。
長沼さんは『やさしい財政のはなし』の冒頭で、自分の職業や地位によって身につけた知識を元にして書いた本を自分の名前で売り出す、という行為が嫌いだという癖があると書いています。そしてその癖により、今までに随分とたくさんの本を書いて売り出してはいるが自分の職業や地位に関係のあるものは一つもないようです。
これも長沼さんがホームズ研究書を九冊も執筆した理由の一つでしょう。
野口悠紀雄さんの『超・整理法 時間編』には、長沼さんは大蔵事務次官の時に役所の仕事は午前中しかせず、午後は次官室を立ち入り禁止にして労働法の研究に励み、夜は宴会を全て断ってホームズの研究に勤しんでいたと書いています。ただし『伝説によると』という前提付きですが。
実際には長沼さんが本格的なホームズ研究に取り組んだのは退官後なので、この伝説が事実の可能性は低いでしょう。
この伝説が生まれたのは、『長沼弘毅追悼録 追悼文集』に書かれていたことが起源ではないかとのことです。『長沼弘毅追悼録 追悼文集』の『えらい方でした』という題で元国鉄総裁である高木文雄さんが記されていた頁に、長沼さんは『役所の仕事、シャーロック・ホームズの研究、最低賃金の勉強、の三つを毎日の時間を極めて厳格に分配して、取り組まれていた』『長沼局長室には、ときたま警視庁さんが駄弁りにきておりました。一つにはシャーロック・ホームズの研究とも関係があったようですが』と書いていました。
日本シャーロック・ホームズ・クラブ会員である遠藤東樹さんは長沼さんが書いたホームズと犬についての論文の間違いを指摘したところ、一人での研究には限界があり大勢の人達が得意分野を手掛けるのが望ましいので日本にもホームズ愛好者のクラブが出来れば良いと長沼さんが言ったそうです。
長沼さんは1977年に亡くなり、それから五ヶ月ほど経った1977年10月1日に日本シャーロック・ホームズ・クラブが発足しました。遠藤さんは、長沼さんが日本シャーロック・ホームズ・クラブが発足したことを知ってほくそ笑んでいるに違いないと言っています。長沼さんは日本シャーロック・ホームズ・クラブのような日本のシャーロキアンの集まりを望んでいたということです。
ちなみに、遠藤さんは長沼さんの意志を継いで機関誌『ホームズの世界』に『ホームズと犬』というタイトルの論文を何回かに分けて寄稿していました。この論文ではかなりくわしく正典における犬について書かれており、遠藤さんは犬のクラブにも入っているようです。
また、長沼さんは体が悪かったようで、財団法人がん研究振興会の機関誌である『加仁』1978年4月発行の14号に掲載されていた、主治医である三輪潔さんの『長沼先生と十五年』によると長沼さんはアメリカでの講演旅行の途中に吐血・下血でフラフラとなるほど胃が悪くなり、急遽帰国して国立がんセンターで早期胃がんと診断されました。しかし手術中に心臓の様子が良くなったので膵臓にある石を取ることが出来ませんでした。肝臓、糖尿糖、肺も悪く、健康なところは脳細胞だけという状態でしたが仲の良かった国立がんセンターの三代の総長達より長生き出来たのは、長沼弘毅さんと長沼夫人、そして家族の丹精の結果だっただろうと三輪さんは記しています。
そして1977年4月27日早朝、心不全により七十歳で死去。長沼さん本人にはがんであることを告知していなかったようですが、病理解剖の際には完治していたようです。




