「這う男」の元ネタ
短編『這う男』に元ネタがあると仮定して、意外と簡単に見つけられるのではないかと思いました。なぜならば、『這う男』はSFのような話しなので元ネタがあるはずです。なので、元ネタを探すことにしました。
すると、『這う男』を連想させるような話しを見つけました。斉藤和季さんの『植物はなぜ薬を作るのか』によると、アフリカのチンパンジーが明らかに病気と判定されますが、普段は口にしない苦味の強いキク科の植物の茎から染み出した髄液を飲んで、約一日後に体調が治ったと研究チームが報告をしたようです。
このキク科の植物を調べると、セスキテルペンラクトン類とステロイドグルコシド類という化合物が発見されました。これら化合物は寄生虫の産卵を抑制する作用があり、チンパンジーはこれを食事ではなく薬として口にしました。
ちなみに、チンパンジーであっても人間であっても薬となる植物の発見は、偶然(植物を食べたりする試行錯誤)の産物のようです。
まあ、上記の話しは元ネタではないのは確かですが、『這う男』の物語である『猿のようになる』という点が似ていて、かつドイルが知り得た可能性が高い話しを発見するに至りました。
その話しとは、日本にいた忍者のことです。日本のことならウィリアム・K・バートンを通じてドイルはある程度は知っていましたので、可能性は高いと思います。
岡山藩の伊賀忍者が残した忍術書である『忍秘伝』には、忍術が家内に忍び込む際に猿の皮を被って変装することもあると記されていると『歴史の愉しみ方』に書かれていました。
伊賀忍者のこの忍術を元に、ドイルが『這う男』を書いた可能性は少なからずあるのではないでしょうか。
しかし、『這う男』が発表される前後に伊賀忍者が存在していないと、ドイル(またはバートン)は伊賀忍者の忍術を知りようがありません。なので、伊賀忍者がいつまで存在していたのか調べてみることにしました。
岡山県はインターネット上の『デジタル岡山大百科』にて、旧岡山藩池田家の侍帳を無料で公開しているとも『歴史の愉しみ方』にはありました。侍帳とは、藩士の役職や名前などを記した名簿です。
私はこの『デジタル岡山大百科』で侍帳を検索し、嘉永2年~嘉永6年(1849~1853)の侍帳だと考えられる『備前藩侍帳』を開きました。これによると、御忍衆と呼ばれる伊賀忍者が十人いると記されています。
1849年~1853年というと、ホームズが生まれた(と考えられている)1854年に近いです。これ以後、忍者の数は徐々に少なくなっていきます。いろいろ調べましたが、これ以降なかなか伊賀忍者の存在が確認出来ませんでした。
バートンは政府のお雇い外国人として来日していましたが、お雇い外国人には西洋技術を日本に伝えるだけでなく日本文化を海外に紹介したりしていました。
バートンが来日したのは1887年、伊賀忍者の存在が確認できたのは前述した通り1853年です。その差は4年程度なので、バートンが来日して日本文化を調べている最中に伊賀忍者やその忍術のことを知ってドイルに話していたとも考えられます。
案外と忍者が『這う男』と関係あった可能性はありますが、江戸時代や明治時代になると日本は平和になったので忍者は表舞台から消えていきました。平和な日本では忍者は忍術を使う機会がなくなっていったので、『忍秘伝』にあった猿に化ける忍術の伝承者もいなくなりました。
しかし、内部機密をペラペラしゃべることが多い伊賀忍者がいたことで、伊賀忍者の忍術は『忍秘伝』という形で残りました。
猿になるような症状(四つん這いで廊下を這いまわる行動)をワトスンは最初、腰痛だと結論付けていました。そこでワトスンは、腰痛の酷い発作が起こったために四つん這いで歩くしかなくなった男性患者の例を挙げています。
腰痛の原因は様々ありますが、河出文庫のホームズ全集の『這う男』にあるW・W・ロブスンの注釈によると『リューマチ性腰痛』だと特定されています。
ドイルは医者だったので腰痛についてもくわしいと思うので、この腰痛が『這う男』の元ネタになったとも考えられます。腰痛が元ネタだという方が現実味を帯びるのでしょう。
明日は『シャーロキアン』を投稿します。




