ソア橋
【トリック】
六十編ある正典の作品のうち、トリックが含まれているのは二十六編に過ぎないと江戸川乱歩が分析しています。
不人気である短編集『シャーロック・ホームズの事件簿』に収録されている短編の中で、『ソア橋』はかなり人気の高いものです。
この『ソア橋』では、世界初とも言うべき凶器喪失トリックが登場しています。
このトリックは凶器の拳銃に紐を結びつけ、もう片方に重りを結び、重りが結ばれた方を橋の欄干から垂らして準備が完了となります。
そして拳銃を離すと、拳銃は重りに引っ張られて橋の下、つまり川へと落ちていきます。作中では、拳銃が落ちていく時に欄干に傷がつきました。
このトリックについて田上綱彦さんは、少しの重りでは拳銃が欄干に引っ掛かってしまうし、欄干に傷をつけるほどの重りだったら犯人(女性)は支えることが出来ないのではないかと指摘。
そしてトリックが成功したのは、当時の欄干が非常に低かったからだと推理しています。
ソア橋には橋杭は無く、橋桁は1本しかないので、ソア橋は立派なものではありません。
このトリックが実際に可能なのか実験をした例もあります。NHKのとある番組の、『ソア橋』のトリックを検証するコーナーにて、田中喜芳さんは実験を行っています。
この実験だと、何度やっても欄干に(おもちゃの)拳銃が引っ掛かってしまい、結局スタッフが橋の下から紐を引っ張って落とすことになったようです。
江口誉史さんが滋賀県の野洲川の橋で行った実験では、凶器は下に落ちるものの石の欄干に傷をつけるのは至難の技であるとして、ホームズ共犯説を唱えています。
二人の実験は成功しませんでしたが、日本シャーロック・ホームズ・クラブ関西支部会員である福島賛さんの実験では成功をしています。
その実験は、日本シャーロック・ホームズ・クラブ関西支部30周年記念行事の一環として、大阪・中之島の水晶橋で2011年8月6日に実施されました。
その実験での重りは、江口さんの実験を元に女性が持ち上げて片手で支えられる重さを最大八キロと仮定し、水の入った二リットルのペットボトル三本(六キロ)を使用しています。
一回目の実験は失敗しましたが、二回目と三回目の実験では拳銃代わりのダンベルが地面に跳ね返ってから欄干に激突し、仕掛けごと川に落ちて成功したようです。
短編『ソア橋』の作中での『遺体と欄干の傷の間が少なくとも15フィート(4.5メートル)』という描写にも忠実に従って、幅が9.09メートルある水晶橋の中央付近で実験を行いました。
ということは、『ソア橋』のトリックは実際にも出来るということになります。
また、この『ソア橋』のトリックには元ネタが存在します。赤月俊太さんはハンス・グロスが1893年に著した『予審判事必携』の本の中に『穀物商事件』という事例が掲載されていると言っています。
その『穀物商事件』の内容は、裕福な穀物商が橋の上で銃創を負っていて、不審な男に容疑がかかります。
しかし予審判事が現場検証をおこなった時に、死体の側の橋の欄干に新しい傷があるのを見つけて川をさらったところ、一方の端に大きな石を、他方の端にピストルをつないだ紐を発見し、弾道が一致したというものです。
実験するまでもなく、実際の事件で同様のトリックが使われていましたね……。
この『穀物商事件』の動機は『ソア橋』とは違いましたが、赤月さんは動機にも元ネタがあるとして、アイルランドで1887年に発生したクロス事件を挙げています。
この事件は不倫が動機で、妻をヒ素で毒殺するものです。つまり、ドイルはトリックも動機も実際の事件からパクっていたことになりますね(笑)。
【ソア橋】
ソア橋は橋桁のない幅広い石橋で、両側に欄干があり、長くて深いヨシが茂るソア池の一番狭い部分に架かっています。
池は橋の両側でふくらんでいて、ひょうたん型の池の真ん中部分にソア橋が架かっているイメージで十分です。
【ソア・プレース】
平賀さんは作中から、事件の舞台であるソア・プレースの特徴を探し出して、箇条書きをしています。それを下に引用しましょう。
・プレースの名前は、日本語ならば荘園、農場などと称されるようなある程度の広さとまとまった地所を示している。
・イングランド南部のハンプシャーにあり、ウィンチェスターの郊外、汽車で数駅のところ。
・地所の中央に、「半ばテュードル式、半ばジョージ王朝式」の宏壮な古い木造の館が建つ。
・地所の入り口から館に通じている馬車道に、橋桁のない(ワンスパンの)石の橋が架かる。
・橋は、地所のなかのソア池の幅が狭くなった部分に架かっており、そのたもとでマリア夫人の死体が発見された。
・橋は、館から半マイル、両側に石の欄干がある。
・ソア・プレースの周囲は、荒野が広がる丘陵。
・地所のなかに雉の猟場(森)がある。
上の特徴から、平賀さんはイギリスの大縮尺地図で調べ、ノーシントンのザ・グランジが該当しました。
館は新しいらしいのですが、百年余りで建て替えられた可能性もあるので、全ての条件に該当するといっても誇張ではないようです。
最有力候補地としては、このノーシントンのザ・グランジが人気のようです。
このノーシントンのザ・グランジをソア・プレースとしているのは日本の平賀三郎さんやジョナサン・マッカフェティ、フィリップ・ウエラーなどなどです。
デビッド・ハマーは作中で描写されている情景から、ウィンチェスター近郊のノーズベリー・ハウス、バリントン村、ノートン・マナーハウス、ティッチボーン・ハウスの四つをソア・プレースの候補地として挙げています。
ただし、いずれも現地調査の結果、ソア・プレースにうまく適合するものがなかったと報告されています。
ノーシントンのザ・グランジの地図を載せたいのですが、グーグルマップがスクリーンショット不可だったので出来ませんでした。気になる方は、調べてください。
【邦題】
邦題である『ソア橋』の原題は『The Problem of Thor Bridge』です。『ソア橋』の『ソア』の部分に該当する単語が『Thor』になります。
ただ、『Thor』は北欧神話の雷神トールを表していることから、それに倣って『トール』と読むのが正しいとする説もあるようです。
河出文庫版では『トール橋』と訳されていて、中国語圏では『雷神橋』と訳す場合もあるとか。
ちなみに、英語読みでは『Thor』、マーベルヒーローの『Thor』というキャラクターも『ソー』と読むそうです。
英語って複雑ですね……。
この情報をくださったのは庵字様という、小説家になろうなどで執筆活動をしている方です。
『偽毛連盟 ~安堂理真ファイル19~ 』や『ファンタロジック・ホームズ─異世界探偵事件簿─』などのホームズ関連作品(正典のパクリじゃないですよ)を書いています。
庵字様、ありがとうございました。