「這う男」の若返り法
【若返り法】
短編『這う男』では、若返り法が登場して、それが鍵を握っています。
作中では、猿の血清に由来する薬を注射したことによって若返ったと記されています。
この若返り法はインターネットで調べるだけで一目瞭然、そんな若返り法はあり得ないと叩かれて評価は低い作品です。
私も若返り法なんて存在しないと思っていましたが、どうやら現代の最新科学の見地からは決して荒唐無稽な話しではないようです。
そう言っているのは新野英男さんという方で、日本シャーロック・ホームズ・クラブと日本シャーロック・ホームズ・クラブ関西支部の両会員らしく、専攻は病理学で、準大手製薬会社で医薬品の研究、開発、営業に携わっていたという経歴の持ち主です。
新野さんによると、人間と猿は生物学的に極めて近縁であるため、共通の感染症が多く存在するらしく、猿の血液を人間に投与する場合、その血清の中に人間にも感染する病原体が混入している危険性は高いそうです。その中で最も恐ろしいのがウイルス感染です。
ウイルスは病気の原因になる以外に人間の遺伝子に潜り込んで、人間の体に変異をもたらす性質があるようです。
イボはウイルスによって皮膚組織が変異したものだという例を挙げています。
また、宿主の遺伝子を自らの遺伝子に取り込む能力もあるようです。そういうウイルスの能力を逆手に取ったのが、遺伝子治療というものです。
この遺伝子治療は、病気の治療に役立つ遺伝子をウイルスの中に組み込んで、そのウイルスを患者に感染させて治療をするというものとのこと。
そして、遺伝子治療に用いられるウイルスの中には、人間と猿に共通して感染するウイルスがあるというんですよ!
これらのことから、『這う男』の若返り法は人間と猿に共通して感染するウイルスを利用して、猿の遺伝子を人間に取り込む遺伝子治療だと新野さんは言っています。
【若返り法の効果】
短編『這う男』の作中では、若返り法を行った人物がつる植物を登ったり、猿のように前かがみになって床に手を付けながら這ったり、関節が猿に近くなったり、体臭が変わったりと、猿のように体が変化していきます。
これによって犬が噛みついたり、体臭のせいで吠えたりもしています。犬猿の仲なので、犬が嫌っているのでしょう。
体の変化以外に、内面ももちろん変化しています。元気で活発になり、頭脳明晰になり、若返ったり、犬を挑発したり、怒りやすくもなりました。
若返り法を行った人物である教授を、ホームズは猿だと称しました。若返りの薬は猿化の薬でもあるということです。
この若返り法をホームズは危険だと心配しています。『這う男』を読めばわかる通り、若返り法を行った人物の体にはかなり害がありました。
また、ホームズは、別の人間がこれよりいい若返り方法を見つけてこのような事件がまた起こることを危惧しています。
事件の再発防止のためにワトスンがくわしい若返り法のやり方を記さなかったか、もしくはホームズがその部分を書くなとワトスンに言ったのでしょう。
【時代背景】
この事件は1903年に発生しました。この年は1865年に発表された論文である『メンデルの法則』が見直されて、遺伝に関する研究が盛んに始められた時期らしいです。
遺伝子の本体であるDNA(デオキシリボ核酸)は1869年に発見されていましたが、DNAが遺伝に関わる物質だと証明されたのは1944年だそうです。
また、作中で明言こそされていませんが、教授が猿の血清に由来する薬を注射して若返りを試みたのは子作りが理由になります。
妻を亡くしていた教授が若い娘と再婚し、しかし年を食っていた教授は子作りのために若返りを試みるんですよ(笑)。
なぜ明言せずに若返りの理由をほがしていたかと言うと、当時の時代背景が関係してきます。
当時のイギリスのヴィクトリア朝では性に関することが一切タブーであり、口にしたり書いたりすることが出来ませんでした。
なので『這う男』の作中では、若返る理由をほがしているのです。
このヴィクトリア朝の風潮により、『這う男』以外にも正典では性についての言及を避けている部分が多くあります。
例えば短編『ボール箱』は不倫を主題とした作品なので、短編集として単行本化する際にドイルが『ボール箱』を除くように主張しました。
これにより、短編集『シャーロック・ホームズの思い出』には『ボール箱』が収められていません。
また、アメリカのシャーロキアンであるサミュエル・ローゼンバーグは正典の中にあった面白いパターンを発見しました。
そのパターンとは、正典で性行為をほのめかされたりすると、その後には必ず殺人や戦争などの大量虐殺が出てくるというものです。
長編『緋色の研究』では第一の被害者がジョヴァンニ・ボッカッチョの『デカメロン』を持っていたりします。
この『デカメロン』には愛欲の果てに厳しく罰せられる物語がたくさん載っています。
このようなことからローゼンバーグは、ドイルの内部には作品中に性的なことをほのめかしたい欲求と、そういう自分を死(殺人)をもってでも罰さなければならないという強迫観念があったと論じています。
【『這う男』】
本頁の冒頭で述べた通り、『這う男』は評価の低い作品です。しかしここまで読んだ読者ならわかると思いますが、『這う男』は現在から見ても最先端の技術が盛り込まれた傑作だと思います。
ストーリーとしても、毛色の変わったものです。だからこそ、ホームズがワトスンに作品として発表するように要求したのです。
奇々怪々な事件であり、読み始めた当初からゾクゾクします。Wikipediaには『多くのシャーロキアンが認める、正典中最大のナンセンス編。』とありますが、読めばわかります。
『這う男』はまったく面白味のない小説ではありません。トリックにしてもストーリーにしても楽しめることでしょう。
そもそも注目すべきは、懐いていた犬が飼い主を噛んだという些細な謎から発展していく事件です。
ホームズはこの些細な謎が気になって依頼を引き受け、ワトスンを呼びました。
ワトスンは駆けつけてからその些細な謎を聞かされて急ぐほどでもなかったと落ち込んでいます。これはこれで笑いどころだと思いますが、ドイルのユーモアを感じるのは作中に登場する大学名です。
ケンフォード大学という大学が登場しますが、こんな大学は存在せず、ケンブリッジ大学とオックスフォード大学を合体させた大学名だと考えられています。ドイルのユーモアを感じないでしょうか?
出来ればこの文章を読んでいる読者様にご一読いただきたい作品です。