82.ベールはがれる
――リヴィとライアンがデートをしていた日。
――朝、ホテルスレイプニル。
ベッドの上で、何も纏わぬレオナールにソレイユレーヌが寄り添う様にして寝ていた。勿論、彼女も何も纏ってはいない。2人で薄いシーツに包まれているだけだった。
レオナールが先に目を覚まし、彼女を起こさぬ様に左腕を引き抜き、上半身を起こした。
傍にあったガウンを手に取ると、それを羽織った。
「あら、着てしまいますの?」
背後から声が聞こえる。彼女は目を開いており、横向きでこちらを見ていた。
「何か問題か?」
「素敵な体をもっと見ていたいという、私の気持ちも分かって下さらない?」
「散々見たではないか」
悪戯にソレイユレーヌは微笑んだ。
レオナールは立ち上がり、カーテンを開けて日差しを部屋へと入れる。
目の前には広場が広がる。広場の中心には噴水と大きな円柱があった。円柱の頂上には、約500年前の王の銅像が建っていた。
広場を囲む様にしてある、周りの店舗が開店準備を始めていた。
丸テーブルに置かれたワイン瓶は、既に空だった。
他に何かないかと見渡し、ホテルのサービスであるウイスキーデキャンタが目に付いた。それを手に取り、隣に置いてあったウイスキーのショットグラスへと注いだ。
琥珀色の液体をグラスの3分の1程注ぎ、軽く回す。そして、香りを嗅いだあと口に含んだ。
「ユージェヌですけど、オリヴィア様にどうです?」
いきなりそう言われ、ウイスキーをむせると眉をひそめた。彼女はガウンを纏い、レオナールの元まで来ると懐に入り込んだ。
「今その話をするのか」
「ええ、今話さないと……レオナール様が逃げてしまうかと」
彼女はレオナールに寄り添う。レオナールは軽く溜息を吐いた。
「例えレーヌの頼みでも、こればかりは駄目だ。リヴィが決める」
そう言うと、彼女は微笑する。
「オリヴィア様にはかないませんね」
「2番目の女で良かったのではないか?」
「勿論、弁えております。ですが、たまには1番にもなりたくはなります」
ソレイユレーヌは上目遣いで、レオナールの唇に触れた。
「欲深いな」
「嫌いですか?」
レオナールは笑みを浮かべると、彼女の顎に触れ、唇を重ねた。
すると、外からベルを鳴らす音がした。見れば小太りの中年男性が、店先で手にベルを持ってカランカランと鳴らしている。口を動かし何かを言っているようだった。声は聞こえないが、何かの「パンが焼けた」と言っているのだろう。
パン屋の隣にある洋菓子店は、外に看板を出し始めている。更に奥にある馴染みの洋服店も、そろそろ開きそうだった。
「どうかしましたか?」
「ん? ああ、リヴィに服を買おうかと」
「ケンカのお詫びですか?」
「……違う。ただの贈り物だ。王都に来れなかったからな」
「ふふっ、そうですか」
気まずそうに顔をしかめる。
彼女に向けた視線を逸らし、店を見た。
(配送……家に? それともルネの家か?)
配送先をどっちにするかで悩んだ。リヴィは邸宅には戻って居ないと聞いた。ならばルネの家へと送るべきだ。
(いや、でも家に送ってエマに届けさせて様子を見させるという手も……)
『領民言わく、最近は誰も彼女を見ていない』
突然、虹霓会議でのフルーブ卿の言葉がよぎった。嫌な事を思い出してしまった事に、苛っとした。
(最悪だ……何であんな奴の言葉を……)
だがここで違和感を覚える。
(『誰も彼女を見ていない』……誰も? そんな事あるのか?)
レオナールは顎髭に触れながら考えた。考え込むレオナールを見て、ソレイユレーヌはレオナールの首筋にキスをして離れた。
「私はシャワーを浴びますね。それから、忘れない内に言っておきたい事が」
レオナールは俯き気味だった顔を上げ「何だ?」と聞いた。
「ルネにこの間、薬を作って貰ったのです。オペラ歌手の友人から頼まれていた声の通る薬なんですけど、とても好評でまた欲しいと。料金は先払いされていますので、口座を確認する様に言っておいて下さい」
「ああ、分かった」
「そういえば、もうルネから新薬の事を聞きましたか?」
「……何の話だ?」
「あら? もう治験が終わったかと。まだなのかしら。声が通る薬を作った際、失敗作が出来たみたいで……折角なので治験してからレオナール様に報告する、と言っていたのですが……まだ終わってない様ですね。面白い薬でしたのよ」
「へぇ、どんな薬だ」
「声が変わる薬です」
レオナールの動きがピタリと止まった。
「な……に……?」
「面白いですよね。声が変わるのです。男性は女性の様な声にもなりますし、女性は男性の様な声にもなるのです」
夢から覚めた様な顔をして、レオナールは真っ直ぐ広場を見つめた。
ヴァルとルネが優しすぎること。
ライアンと仲が良いこと。
海賊との戦い方や仕草がリヴィと同じこと。
メリュジーヌの言葉やペルスネージュの態度。
領民がリヴィを見ていない理由。
持っていたあの剣――。
絡まった糸は解けていき、全ての糸が真っ直ぐ1本へ繋がっていく。
「そうか」
怒りで手に力が入り、ウイスキーグラスにはヒビが入った。
***
「どこへ行くんだ?」
ヴァルの迎えが来ると、レオナールはソレイユレーヌに別れを告げて外へと出た。向かう先が王都ラファル邸ではないので、ヴァルは不思議に思い質問する。
「リヴィに服を買う」
洋服店へレオナールが入ると直ぐに、黒服を着た偉いと思われる店員が出迎えた。
「いらっしゃいませ、ラファル侯爵。本日はどの様な要件で?」
「オリヴィアの服を用意して欲しい」
「かしこまりました。採寸はいつ頃お伺い――」
「仕立てなくていい。直ぐに持ち帰りたい」
「左様ですか。でしたら――」
店員はショーウィンドウのトルソーに飾られた服に手を向けた。
「あちらの服でいかがでしょう。クラルテ夫人の新作で、オリヴィア様の好みにも合いますし、サイズも問題無いかと」
「それでいい」
直ぐに店員が、トルソーから服を取った。白い箱に、畳まれた服が入る。その上から可愛らしいピンク色のリボンが結ばれた。
料金を小切手で支払い、ヴァルが荷物を持つ。そのまま外へと出ると、王都ラファル邸へと向かう。
「あれ? 配送しねぇの?」
「ああ」
レオナールは口の端を上げて笑う。ヴァルは不気味さを感じたが、何故なのか分からず何も言わなかった。
「それと直ぐに帰る」
「え!? 仕事は!?」
「レーヌに任せた。後は何とかしてくれる」
王都ラファル邸に戻ると、使用人達に帰る準備をさせた。リリアーヌからは文句を言われたが、帰らないという選択肢は無かった。
急いでジャンは荷造りをし、御者も急いで馬車の準備をした。
準備が終わると、レオナールとヴァルは外へと出る。
「ヴァル、先に乗れ。少しボニファスと話す」
ヴァルは眉をひそめ、馬車に乗り込んだ。レオナールは御者の元まで行くと、何かを話して馬車へと入った。
乗り込んだレオナールはやはり口の端を上げている。
怖いのは目が笑っていない事だ。
「なんだよ。どうしたんだ?」
「別に」
先程買った品物をジャンが持って来た。そして、レオナールへと渡すと横へと置いた。ジャンが扉を閉めた数分後、馬車は出発する。馬車内は微妙な空気だった。
(なんだ……レーヌとなんかあったか……にしてはなんか違う気がする……)
窓の外を雨が降り始めていた。
道が泥濘むので、白百合号に着くのは明日だろう。そんな事を考えていると、馬車が左に曲がり、異変に気付いた。
――この道は白百合号に帰る道ではない。
「ちょっと待て!! 何処に行くつもりだ!? こっちの道はラファル領への道だろ!?」
慌ててレオナールを見ると、彼はニヤリと笑っていた。
「そうだ。これを届ける」
「はぁ!?」
レオナールは隣に置いたリヴィへと贈り物をぽんぽんと叩いた。
「届ける!? 配送で良かったんじゃねぇの?? なんなら次はジャードだろ。その時にでもライアンに渡すように言ったら良いんじゃねぇか!?」
「何を慌てている。ヴァルが『帰る時ラファル領に1回戻ったら』と言ったのだろう」
「あ、いや、まぁ、そうだけど……」
(どうする!?)
まさかのレオナールの行動に動揺を隠せなかった。このまま帰られては、リヴィが居ない事がバレてしまう。
「そんなに慌てているのは、帰られては困るからだろう」
「へ?」
レオナールの目付きが鋭く光る。
「リヴィは、白百合号にいる。リヴィオがオリヴィアだからだ」
「ま、またその話かよ。違ぇって。声が――」
「ルネは、レーヌの友人の為に薬を作ったそうだ」
脈絡の無い話に目をぱちくりとさせ、ヴァルは「へ?」と言った。
「その時に失敗した薬がある。ヴァルは知っているよな? それがどんな薬なのか」
心臓が口から飛び出そう――いや、もう飛び出ていると思えた。全身血の気が引き、胃がキリキリと痛む。目をキョロキョロとさせていると、レオナールは腰を上げてヴァルの胸倉を掴んで引き寄せた。
「全部吐けよ、ヴァランタン。吐かないのならその喉首掻っ切るぞ」
そう言って獅子は黒犬を睨み付けた。
ヴァルは観念したようにうなだれ、全てを話す事になった。
***
――翌日。
「私に用が?」
白百合号の医務室に、ジャンが扉を叩いて入ってきた。
こんな事は珍しい。
「はい。直ぐに来るようにと」
面倒そうに立ち上がり、医務室を出て船長室へと向かう。上甲板へ出ると、ジャンは一礼して船を降りて行った。
船長室の扉を叩き、部屋に入る。テーブルの上には、リボン掛けされた箱が置いてある。そして、いつもの席に2人は座っていた。
レオナールは此方を睨み付け、今にも飛びかかってきそうである。ヴァルはこれから死刑執行を待つ罪人のようだった。
2人の表情を交互に確認し、テーブルの上の荷物が誰宛なのか考え、状況を理解した。
「なるほど」
「『なるほど』じゃあ――」
レオナールの怒鳴り声は、白百合号中に響いたのである。




