60.人魚2
「相変わらず痛そうで」
ナイフに付いた血を布で拭きながらヴァルが言った。レオナールは左手を握りしめ、真っ直ぐ伸ばして血を海へ落としている。
「なら変わるか?」
「俺の血じゃ来ねぇよ」
「そうか? 分家だから来るとは思うがな」
「来ても文句たらたらだぞ」
「文句を言ってても、何を言っているのか分からんから大丈夫だろう」
お互い顔を見合せ、鼻で笑った。
数分後、白百合号の周りは白みを帯びて光り、歌が聞こえ始めた。
レオナールは船縁に肘を付けて寄りかかった。
メロディを何人かで歌っている美しい声は、男女共にうっとりしてしまう。初め小さく聞こえていた声は、だんだん大きく聞こえてきた。
それと同時に水面に多くの気泡が現れ、気泡はだんだんと大きくなり、ぶくぶくと音が聞こえる。
水面が数箇所で盛り上がると、大きな水柱が上がった。それが消えると、そこには人魚が水面から上半身を出していた。
1人は白百合号に近い位置に現れ、その後ろに8人の人魚が現れた。
人魚達が現れると、船員達は船首の船縁で彼女達を覗き込んだ。彼らは何度も見ている光景だが、飽きない程に美しい。
――美人は三日三晩見ても飽きない。
後ろに居る8人の人魚はくすくすと笑いながら、船員達を見て片目を瞑り、目配せをしている。
白百合号に近い位置にいる人魚は、金色の光り輝く長い髪に、金色の瞳を持った美しい人魚だった。そしてその髪と、幾つにも連なる真珠のショルダーネックレスで、胸を隠していた。耳は魚の鰭の様な形をしており、頭には真珠と珊瑚で出来た冠を被っている。
彼女はレオナールを上目遣いで見た後、手を2回叩いた。すると、海から幾つもの大小光り輝く気泡がふわふわと浮かび、船の周りを照らした。
――幻想的で美しい光景だった。
次に彼女は、右手で水面を右から左へ大きく撫でた。
すると、水面はレオナールがいる位置まで盛り上がった。人魚はその盛り上がった水面に座っている。彼女の尾鰭は、オーロラを見ているかのように揺らめいた色をしていた。
「やぁ、メリュジーヌ」
『やうこそ、風の番。とてもよい香りがしたえ』
人魚は微笑すると、レオナールの左手を取り、再び美声を奏でた。だが今回の歌は短く10秒程で終わった。
歌い終わると、左手の傷をゆっくりと舐めとる。人魚が手を離し、レオナールが左手を見ると傷は治癒していた。
メリュジーヌは悪戯に笑い右手で口を抑えた。
『けふも人喰い人魚の住処を知りたいんでありんすか?』
「そうだ。今は何処にいる」
『の、まえに。の、まえに』
メリュジーヌは後ろに居る人魚達を見遣る。
『わっちの愛しき娘達へのお土産を。みな待っているでありんす』
レオナールは左手で合図をだす。後ろに控えていたドニとイーサンが、スルト港で積んだ顔のいい死刑囚をメリュジーヌの前へ連れてきた。後ろ手に鎖で繋がれ、必死に抵抗している。
イーサンが死刑囚の髪の毛を引っ張り上げた。メリュジーヌは男の顔をじっと見つめる。
『うん、よろし。なれどもう1人欲しいんす』
「もう1人?」
『さなり。ちょうどけふは末の娘が成人しんした。愛しい娘だけのをとこを得てし』
彼女の娘達は皆、年齢が違う。レオナールが後ろの娘達を見ると、1人の人魚が手を頬に添え、恥ずかしそうにもじもじしている。
人魚の寿命は長く、300年程ある。彼女は10代半ば程の年齢に見えるが、成人をしたと言っていたので50歳だろう。
「なるほど」
(誰にするか……)
レオナールは右手を顎に触れ、俯きながら考える。
『主でもいいでありんす、風の番』
メリュジーヌはクスクスと笑い、船縁に手を着いてレオナールに顔を近づけた。
『なれど、末の娘より、わっちの相手をして欲しいでありんすが』
メリュジーヌは唇を開き、レオナールの唇に近づけた。ヴァルは1歩踏み出し剣の柄を握るが、レオナールが右手で制止した。
「歳上は嫌いじゃない。だが流石に200歳上は範囲外だ」
メリュジーヌは唇を閉じ、顔を引いた。
『おぶしゃれなんすな、150……100歳程でありん』
そう不機嫌そうに言った。彼女の見た目は20代後半程だが、魔力で若さを保っている。
「変わらん」
『もう、さがなし……』
そして急にメリュジーヌはヴァルを指差し『お主は僅かによい香りでありんすが、みめ好かや。わっちゃあ嫌。思いやめよ』と言った。
ヴァルが1歩踏み出したのを見てそう言っている。彼はレオナールの身を守ろうとしたのだが、彼女には「レオナールではなく俺にキスして」に見えたらしい。
所々、言っている事は分からないが、告白してもいないのに振られたのだと察した。
「……ソリャア……ザンネンデス」
完全な棒読みでそう答えた。レオナールは軽く笑い、ドニとイーサンは口をぎゅっと閉じて笑いを堪えた。
「ヴァル、海賊の船長を連れて来い。あいつにする」
「あいよ」
ヴァルは階段を降りていった。
『真にならぬか? 3日……1日で戻すえ?』
「駄目だ」
『なら……あっちのをとこは?』
メリュジーヌが指を差した方向を見ると、ライアンが上を向いて立っていた。ライアンは視線に気付き、2人を見ると首を傾げた。
『あの黒いのと香りが似てるえ。なれど見目はよい。恐らく末娘の好みえ。ぞっとする』
「駄目だ」
『わっちがおがみもうしとうよ』
「駄目だ、今から連れてくる奴で我慢してくれ」
『しわし!』
メリュジーヌは不貞腐れている。
彼女の後方では4人の娘が、光る気泡をボールの様にして遊んでいた。残りの4人は船首楼の方で、水を盛り上げて船に近付き、船員達を誘惑していた。
うっとりと彼女達を見る船員達を、呆れた顔で見て、重い溜息を吐く。
『ああ、よい香りえ』
レオナールに顔を近づけ息を吸い込む。何度か匂いを嗅いで、首を傾げた。
『たがう……?』
スンスンと鼻を鳴らしながら、メリュジーヌは首を動かした。レオナールは訝しげに彼女の様子を見る。メリュジーヌは、顔を上に向けた。
『あのをとこは?』
見張り台を指差した。レオナールが上を見ると、リヴィが単眼望遠鏡でこちらを見ている事に気付いた。
「……あいつ?」
『よい香り。みめは好かんでありんすが、いこういこうよい香りえ』
そして、レオナールを見て『おぼえたるよ』と呟く。レオナールは首を傾げた。人魚の言葉は分かりずらい。言葉の前後で察して話している事も多い。一言だけ言われてしまうと何を言っているのか分かりずらかった。
『あのをとこがいいであり……ん? あれはをとこで――』
「ほら、連れてきたぞ」
ヴァルが海賊の船長を連れてきた。「離せ!」と言いながら必死に抵抗している。ヴァルは船縁に男の顎を付けるようにして押さえ付けた。
「ニナは! ニナに何を――」
「コイツでいいか?」
「話を聞け――」
『ふぅん。けしうはあらず』
誰も海賊の話を聞こうとする者はいなかった。メリュジーヌは後ろを振り向き『ウーラ!』と声を上げた。
すると、先程もじもじとしていた人魚が此方へと向かい、メリュジーヌと同じ様に水を盛り上げた。尾鰭は可愛らしい桃色をしている。
『このをとこにする。よいな』
ウーラは男を近くで見た後、恥ずかしそうに頷いた。
『よろし。ならやり。わっちは見とるえ』
頷き、すぅっと息を吸ったウーラは、海賊の目をじっと見つめ、彼の頬に手を添えて歌う。先程と同じ様に、歌詞は無い。
「何する――……」
先程まで抵抗していた海賊は、急に抵抗をしなくなった。足がガクッと曲がり、倒れそうになったが、ウーラがその前に上半身を抱き締め支える。
ヴァルは男の拘束を解いた。海水が海賊の身体に纏わり付き、衣服を脱がした。彼の体は纏わりついた海水によって浮き、船から離れていく。
柔らかく可愛らしく歌うウーラは、海賊と身をぴったりと寄せ合っていた。海賊もぼんやりとウーラを見ており、口は半開きになっていた。そして彼女は彼の唇に自身の唇を重ねた。
恥ずかしそうに何度も優しく口付けをした後、舌を入れる。男に抵抗する素振りはなく、受け入れ、互いに求める様に舌を絡ませあった。
何度も口付けを交し、唇を離すと、海賊はハッとした表情をした。
「ニナじゃない!? 誰――なんだ……これ……は……」
海賊の下半身に脚はなく、尾鰭になっていた。ウーラが再び目を見て歌うと、海賊は再びぼんやりとし始める。
「やめ、やめ……ろ……ニナ……」
譫言の様に、女の名前を繰り返した。
だが数十秒後には何も話さなくなった。男が再びぼうっとするのを見ると、ウーラは歌う事を止めた。彼女が歌い終わっても、男はぼんやりとしていた。
『よろし! 攻ありんす。初めてにしてはよい』
メリュジーヌは水を動かしてウーラの元へ行き、こめかみにキスをした。ウーラは恥ずかしそうに照れていた。
『行きなんし』
海賊を愛おしそうに抱き締め、ウーラは海へと潜った。男は苦しそうにする事も、抵抗する事も無かった。
『お前達! 邪魔はやめ! 初の閨でありんす!!』
メリュジーヌは2人に付いて一緒に潜ろうとしていた娘達に釘を刺す。娘達はクスクスと笑い、素知らぬ振りをした。
海賊の次は死刑囚だった。
脚は震えている。メリュジーヌはウーラと同じ様に、死刑囚を人魚に変えた。違うのは歌の長さとキスの仕方だった。
ウーラと違いメリュジーヌは短く歌い、恥ずかしがる素振りもなく大胆にキスをした。
男の脚を鰭に変えると、そのまま海へと投げ捨て、娘達が奪い合いながら海底へと戻った。
「さて、そろそろ美声を聞く時間だ」
『あら? もう? そんな事言いなさんな。悲しいでありんす』
「今回は仕事が詰まっている」
『そうなんし? わっちと遊びとう無いだけじゃござりんせん?』
「メリュジーヌ、急いでいる」
『つれもなし』
メリュジーヌはふぅと一息吐いて、レオナールに近付いて耳元で囁く。少しでも近くで匂いを嗅ぐ為だった。
「分かった」
『時じくに待っていんすにえ』
メリュジーヌは再び歌を奏で、海へと潜る。歌は小さくなる事は無く、ずっと響き続けた。ちょうど良い風が吹き、船員達は帆を張る準備をした。
「肝を冷やしたぞ」
「何がだ」
「さっきの、メリュジーヌがキスしようとした時だ」
「歌ってなかったろ。なら、したとしてもただのキスだ。残念だが、ヴァルは出来ないけどな」
ヴァルは顔をしかめる。レオナールは軽く笑ったあと、見張り台を見上げた。リヴィとセルジュが仲良さげに引っ付いて、下を覗き込んでいる。
「どうした?」
「いや…………何でもない」
(いい香り? 魔法の香り以外でメリュジーヌが言うか?)
疑惑は深まるが、それは心に留めた。もっと確信してからでなければ、2人に馬鹿にされ終わるからだ。
「出港しろ」
ヴァルに行き先を告げて、レオナールは船長室へと入っていった。




