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「では書いてくれ」
梁淵の語る策を、朱桂が筆で竹簡に書いてゆく。
蜀の地の竹は中原のそれよりも質が良く、墨も綺麗に乗る。
「三日後……ですか」
「うむ。この空模様ならば明日か明後日には嵐となるであろう。馮異めは、そこで来ると思わせて我らを警戒させ、その後のぬかるみの中を動き、油断する我らを襲ってくると見た」
「はい」
感情をうかがわせない朱桂の声音だが、梁淵はその紅い唇が動くのを視界に入れるだけで妖しい感覚にとらわれた。
白い手が握る筆、しなやかに動く手の甲から手首から視線を外すことができない。
「その際の、漢軍の規模だが……む?」
通常の兵の動きとは違う、馬が駆けこんでくる音が聞こえた。
前線からの伝令か。梁淵は表情を引き締める。
ほどなくして、城内に妙な雰囲気が漂い始めた。
緊迫したものではない。
朱桂が扉の外の衛兵に尋ねに行った。
その眉がひそめられ、紅い唇も変な形に歪んだ。
「どうした」
返答のように、外から扉が開かれ――。
華やかな色彩が流れこんできた。
「梁淵って坊ちゃんはあんただね」
派手な女だった。
目鼻立ちは整っているが、掘りが深く、輪郭がくっきりしている。明らかに異民族。若いということは間違いないが自分より年上か年下かは判別できない。
真っ向から見つめてくる瞳が、緑がかっていた。
翠玉を思わせる、深い色合い。
身につけているものは、体にぴったりした、動きやすさを重視した衣服。あちこち露出しており目の毒だ。その上から羊革とおぼしき毛皮の上衣を羽織り、様々な装身具で飾りたてている。
服の意匠も色彩も着こなしも、肌の露出具合も、すべてが梁淵のなじんだそれとは違っていた。
「ああ、私が梁淵だが……羌族か?」
「もっと西から来たんだけどね。ああ、あたしは胡麗英。本当の名前は違うんだけどこっちじゃ長いし言いにくいらしいんで、面倒だからそれでいいよ」
ここまで羽織っていた上衣を、自分の従者であるかのように、扉脇の兵に投げ渡す。
やたらと体の線を強調する服装から、梁淵は視線をそらした。
「商人か、傭兵か、それとも……?」
兵の無聊を慰めるための遊女、というのは朱桂の前なので口にするのを避ける。
「ああ、そういうのは、うちの姫さんが偉い人と話してる」
「む……」
梁淵は頭脳を全力で回転させた。
姫という言葉からして、西方の、異民族の長かそれに准ずる高位の者が趙匡のもとを訪れたということだろう。
交渉次第では、かなりの山岳民族、遊牧民族が成家の味方につく。
もちろん相手は相手で選択の権利があり、漢にも同じように自分たちを売りこんでいることは間違いないだろう。
逆に彼らが馮異に味方することになれば、この戦の展開は……。
「……して、そなたは、なにゆえここに?」
「運んできたものを買ってくれとか兵として雇ってくれとかは、姫さんとか男連中の話でね。
あたしは、どっかにいい男いないかなって姫さんについてきたんだ。そろそろ子供作っときたいけど、うちの周りの連中はさ、たどっていけばみんな親戚みたいなもんだったからねえ」
「子供……」
あからさますぎる言葉に梁淵は絶句した。
視界の端で、朱桂が、汚物を見るように顔をしかめた。
「で、こっちの軍の一番偉い人、趙匡さんって言ったっけ、その人がさ、それなら面白い男がいるぞって、教えてくれてね。あんたのことだろ? 足折って走れないけど、知恵は天下無双だって」
「む…………!」
梁淵の血が熱くなった。
「梁淵様に、そのような下劣な目論見の者を近づけるわけには参りません」
朱桂が、忠実な臣下のように立ち塞がった。
鋼を思わせるその顔つきを、胡麗英はきょとんとして見つめ、それから美貌を一気に笑み崩れさせた。
餌を前にした獣を梁淵は脳裏に浮かべた。
「ふうん。面白いね。
ま、とにかく、偉い人に言われたんだし、しばらくあんたの側にいるよ。気に入ったら精を搾ってやるさ」
「な……!」
梁淵ではなく朱桂が先に動転し、真っ赤になり、それからギリリと音が聞こえるほど歯を食いしばった。
「下劣な……!」
「ふうん、やるならあそこか。味気ないねえ」
翠玉の瞳が、部屋の隅にしつらえられている梁淵の寝台を撫でるように見た。男性ひとりが横になる幅しかない。もしそこで二人で寝るのなら手足を濃厚に密着させなければならないだろう。
「見た感じ、あんた、何もさせてないんだろ?」
「当たり前だ! けがらわしい!」
朱桂は、剣を携えていれば抜き放たんばかりの剣幕でにらみつけ、胡麗英は口元だけの笑みをさらに深めた。
「させる気ないんなら問題ないよね? あんたはあんたのやることをやってりゃいいだろ。あたしはあたしのやりたいことをやるだけさ」
「まったく……文明というものを知らないやつらはこれだから」
対抗するように朱桂の紅い唇も笑みの形をつくり、胡麗英の翠瞳がさらに鋭い光を帯びた。
「いや、待て、そなたら、そもそも私はまだ何も――」
女二人がそろって梁淵を見た。
敵兵よりも恐ろしいものを前に、梁淵の声は途切れた。