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「おお」


 入室してきた趙匡が最初に発したのは、感嘆の声だった。


 がらんとしていた一室は、あれから一月を経て、物であふれていた。

 室内の中央には広い台が置かれ、布や木ぎれで戦場付近の地形図が作り上げられている。

 壁には棚がしつらえられ、この戦を巡る様々な情報が記された竹簡の束で埋めつくされていた。


 城の外はようやく春の気配があらわれてきた程度で、まだ肌寒かったが、この室内は部屋の主の発する若々しい熱気に満ちていた。


「戦場の全てを見透さんとする、その意気や実によし」

「ありがたきお言葉にございます」


 部屋の主たる若者は、未だに癒えきっていない折れた脚をかばいつつ、可能な限り深々と頭を下げた。


「諸将の手前、そなたを自由に振る舞わせることはできぬこと、許してくれ」

「いえ……! 軍紀違反をしでかしたこの愚か者の命を、お救いいただくだけでも十分にございます!」

「ならば、そなたの命は、わしのものということでよいな?」

「はいっ!」


 梁淵は最敬礼し、感動に涙を流した。


「な、治りの遅き、忌まわしきこの脚も、閣下の御為とあらば、切り落としてごらんにいれましょうぞ!」

「無茶はするでない。そなたに求めておるのは豪勇ではなく知略よ。この部屋を見れば、そなたの頭の中は以前と何ら変わらぬことがよくわかるというもの」

「ありがたき……おおせ……!」

「そなたが幾度となく伝えてくれた策は、非常に役に立っておる。馮異めに敗れることなく春を迎えることができたのも、そなたの功績によること大というものよ。

 他の誰が知らずとも、わしは知っておる。誰もがそなたを嘲ろうとも、このわしが認めておる」

「はあっ……!」


 梁淵の涙は止まらなくなった。


「戦場から離れていればこそ見えるもの、机上にて全体を俯瞰(ふかん)しておればこそわかることも多かろう。前線のみが戦の采配を振るう場ではない。後方よりのそなたの目を、わしは頼りにしておるぞ」

「…………!」


 感涙にむせび続ける梁淵を、趙匡はしばらく慈父の目をして見つめていたが、やがてわずかに下卑た、気安い声で問うた。


「して、あの朱桂とは、どうなっておる?」

「は……?」

「あの娘よ。どうだ?」

「は、その、あの、どうと、おっしゃられましても……」


 梁淵は鼻をすすりつつ、純情な少年のように顔を赤らめた。


「ほほう……」

「か、閣下、その、何か、誤解なさっておられるのではないかと思われまするが、わたくし、そのような、あの娘とは、確かにその、兵法を知っており意見を求めれば『孫子』を引用したりして、そのような女にはこれまで会ったことがなく、きわめて貴重と思っており、いえもちろん本来求められている通りの仕事は色々とよく気がつきよく尽くしてくれておりましてこれらの品々も彼女がそろえてくれたものにございますが……」


 しどろもどろに、口数ばかり増える梁淵である。

 趙匡の笑みが深くなった。


「なんだ、まだ()()にしておらぬのか」

「それは!」


 純情そのものの赤い顔が、言葉を失って唇ばかりぱくぱくさせた。


()()()()目では、その、わたくしは、そのために、側に置くことを許したわけでは、つまり、求めるものというのが……」

「先に告げておくべきであったな。手を出してもよいのだ。いや、出してもらいたいのだ」

「なんと」


 梁淵の表情が消えた。理解を絶したゆえの思考停止である。


()()はすでに年頃を過ぎようとしている。早々に誰かの元へ嫁いでもらわねば、宮廷の笑いものになるばかり。誰か良い者はおらぬであろうか――と、父の朱定から相談されておっての」

「も……もしや……」

「そなたならば、年齢といい血筋といい、申し分なしじゃ」


 梁淵の顔面が一気に紅潮した。


 しかし、次の瞬間、興奮と歓喜が、思慮と沈鬱に置き換わった。


「それは……ご命令でありましょうか?」

「む、不服か」

「いえ。これ以上なき喜びにございます。

 されど、戦はまだ終わっておりませぬ。

 無念のうちに(たお)れた者、この時も命を懸けている者たちがすぐそこにいるというのに、わたくしのみが良き目を見るというのは、いかに閣下のお言葉といえども、お受けするわけにはございませぬ」

「ふむ」

「全ては、この戦が終わってからにいたしたく存じます」

「なるほど、そなたらしい。わかった、考えよう」


 慈父の笑みを見せて趙匡は前線へ戻っていった。


 趙匡が去った後、梁淵は面をかぶったような無表情で固まっていた。


 いつも通り朱桂が入ってきて無表情で室内を整え始める。

 身動きに伴い、服の下のしなやかな体つきが時折浮かんで見えてくる。


「……どうかなさいましたか」


 問われてもやはり梁淵の表情は動かず、その瞳も不自然に固まって、一方向を見据えたまま動かなかった。


 何かしら戦場のことでも考えているのだろうと判断したらしく、朱桂は黙々となすべきことをなして、退出してゆく。


 扉が閉まり向こう側で閂のかかる音がしてから、梁淵ははじめて動き――ゆであがった顔を両手で覆い、寝台に突っ伏した。



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