6
目を開くと、天井があった。
屋内だ。殺風景な、がらんとした部屋。
窓があり開いている。外は青空。風は冷たい。冬の空気だ。
梁淵は寝台に寝かされていた。
こめかみ、いや側頭部が痛んだ。包帯が巻かれている。左足も、添え木をあてて強く巻かれていた。折れたのを治療されている。
「お目覚めでございますか、梁淵様」
女性の声がした。
「!」
見た途端に、雷に打たれたようになった。
身につけているのは飾り気のない衣服だが、容姿整い品のある、若い女だった。
薄めの唇が、わずかに化粧しているのか紅色の艶を帯びている。
戦場に、なぜこのような女が。
問いかけるより先に、胸が激しく高鳴って、声が出なくなった。
貴公子である梁淵は、成都で女遊びに興じたことなど幾度もある。たかが下女ひとりでこのようになるはずが、と自分自身を怪訝に思う。
だが現実に、梁淵は経験したことのない感覚にしびれていた。
何も言えずにいると、女の方から口を開いた。
紅い唇の動きが梁淵の目に焼きついた。
「ここは綸城にございます。先の戦から二日が過ぎております」
「なにっ!?」
綸城は、趙匡軍の後方基地として使われている小城だ。
戦による負傷者も、重傷者はここで治療されている。
窓の外には軍兵の気配が――なかった。
つまり敗残しここにこもっている、ということではないようだ。
「な、何が起きた!? 戦はどうなったのだ!? 閣下は!?」
叫び、立ちあがろうとして、激痛に襲われた。
「お水でございます。すぐ医師を呼んで参ります」
苦悶する梁淵に素っ気なく言うと、女は杯に水を注いで寝台脇に置き、きびすを返した。
扉前で声をかけると、ガツッと硬い音がして、扉が勝手に開き――その向こう側に立つ兵士のいかつい姿がちらりと見えた。
女が出て行くと、扉は閉じられ、またガツッと音がした。
「む……?」
今のは、閂がかけられた音だ。
内側ではなく、外側から?
ということは、閉じこめられている?
「いや……」
負傷した兵士が錯乱し、暴れるというのは、よくあることだ。
手足を失い自分が今後まともな生活を送れなくなったとわかって自棄になったり、仲間が目の前で無残に死んでいった光景が頭から離れなくなってしまったり、頭を打って物事の判別ができなくなったり。
そうした事態を想定して、外側から部屋を封じられるようにすることは、それほど不思議ではない。
それより問題は、自分の記憶と、戦の状況だ。
あの後どうなったのか。趙匡閣下は、自軍は、馮異は。
自分は――衝撃を受けた後、まだ意識はあって、何かしら叫んだり動いたりしたおぼろげな記憶はあるが、詳しいことが思い出せない。脚を折り、また頭に傷を負ったのはどうしてか。
思い出そうとするうちに、また扉が開いた。
あの女ではなく、医師と、武官が入ってきた。
この城の守備をまかされている郭脩だ。梁淵とは顔見知りである。実直な人物だった。
しかしその顔つきに、妙に冷淡なものが宿っていた。
「まず、現状を説明いたします」
医師の診察が終わると、郭脩は話し始めた。
皇后の一族に連なる梁淵の方が地位が高いために、丁寧に話してくれる。
だがやはり声音は硬く、冷ややかだ。
「一昨日の戦は、我が軍の勝利です」
「おお! ならば馮異を!?」
「馮異は、残念ながら逃してしまいました」
「む……」
「我が軍の損害も多く、衛恂どの、范植どのが討たれ、田通どのは落馬したところを漢軍に捕らえられました」
「ああ……范植どのもか……」
「しかし全体としては我が軍の勝利。漢軍を追い散らし、こちらもいくつかの首級をあげました。漢軍は上邽に逃げこみ、我が軍は戦列を整え直している最中とのこと」
「なるほど。して、戦の経緯は。山間に馮異を追いつめ……その後からの記憶がないのだ。私は何故このような怪我を。馮異はいかにして逃れ、閣下は」
「落ちついてください」
郭脩に詰め寄ろうとすると、ついと身を離され――即座に兵士が入ってきて、腰の剣に手を添えつつ、梁淵に鋭い目を向けた。
「な…………これは?」
「梁淵どの。あなたは現在、軍令違反の罪人としてここに留め置かれているのです」
梁淵の目が大きくなった。表情は消えた。理解が及ばなかったからだ。
「軍令……違反? それはいったい…………む……」
記憶がよみがえってきた。
あの時の光景も。
「閣下よりうかがった、戦の顛末です。馮異を追いつめたかに見えましたが、その場所には実は抜け道がありました。我が軍が入りこんだところの斜め後方の、きわめて気づきにくいところに」
「…………」
梁淵は思い出す。そう、いきなり自軍が乱れ、背後からときの声が上がった。轟音もした。
「馮異はそこに兵を伏せており、我が軍が正面の馮異本人に気を取られた隙に、伏勢が岩を転がし石を投げ、背後から突撃してきたのです。そしてその際、梁淵どの、あなたは」
「わかった……思い出した。言うな!」
頭をかかえた梁淵は、側頭部の傷の痛みと、それ以上の恥辱に、大粒の汗を浮かせつつ身震いした。
背後から伏兵に襲われこちらの陣列が乱れたところで、前方の馮異隊が突撃の構えを見せ――。
馮異さえ討てば終わる、どれほど犠牲が出ようとも伏兵など無視して馮異に攻めかかるべしと梁淵はとっさに考え。
「前へ! 攻めを!」と趙匡に怒鳴り、自ら先頭に立とうと馬腹を蹴ったのだ。
趙匡のかたわらで助言することのみを求められている幕僚が、総大将たる趙匡を差し置いて兵に命令し、指示を待たずに突撃しようとした。
軍の統制を乱す行為だ。言い訳しようのない軍令違反。徴兵されたばかりの兵でも、上官の命令あるまで動くなということを叩きこまれている。なのに自分が、そんな愚かな行為を。その場で斬首されていてもおかしくなかった。
梁淵は両手で顔を覆い、爪を立てた。
「私は、勝手に飛び出そうとしたところで、敵の石にあたり、落馬したのだな……」
それで、頭の怪我と足の骨折は説明がついた。
そのまま死んでしまっていればよかったのにと思った。
「いえ、他の方があなたを馬から叩き落としたと」
恥はさらに上塗りされ、梁淵はどん底に沈んだ。
自分は命こそとりとめたものの、罪人として扱われている。
だからこその閂、監視の兵、そして郭脩の冷ややかな態度なのだ。
「……それはともあれ、趙匡閣下の素早いご指示のおかげで、我が軍の被害は最小限にとどまりました。ただ馮異には逃げられてしまったそうにございます」
郭脩が、呆然自失の梁淵に淡々と語り続ける。
「趙匡閣下は即座に馮異を討ったと後方に伝え、叫ばせたところ、追ってきていた漢軍は意気阻喪、追撃の手はゆるみ、どうにか押し返すことができました。後は先ほど申し上げた通りにございます」
「…………そうか…………」
梁淵は顔を覆った手の下から、かすれた声で訊ねた。
「それで……私は……後方へ……成都へ送り返されてしまうのか……?」
治療されたということは、死罪ではないのだろう。
だがもう前線に出してはもらえず、後送され無能の烙印を押されたまま生きていかなければならなくなる……その未来を想像した梁淵は、足が折れていなければ即座に窓から身を投げたい心地に入りこんでいた。
「その件につきましては――外せ」
医師や兵士たちを退出させたらしく、重たい足音がいくつか出ていった。
「閣下より言伝をうけたまわっております。
梁淵どのにおかれましては、この城で傷を癒しつつ、これまで通り活発に今後の戦について御提言なされよとのこと」
「…………?」
理解が及ばず、梁淵はのろのろと顔を上げた。
「それは…………つまり……?」
「罪は罪ゆえ、扱いは罪人とせざるを得ませぬが、お役目はそのまま果たし続けよ、休んで楽になるなど許さぬ……とのことにございます」
「おおお……!」
梁淵の全身に炎が満ちた。
郭脩のことなどどうでもよくなった。
趙匡は、失敗し続けた自分をなお認めてくれている!
自分の意見を求めてくれている!
先ほどとは違う理由で、窓から飛び出したくなった。
今なら高々と飛翔し、上空から戦場全体を見下ろしつつ、勝利のための策をいくらでも思いつけそうだ。
そのためにはまず自軍敵軍両方の状況を確認しなければならなかった。兵員の損耗度合、補充の見こみ、士気、兵糧、他の方面の戦況も知らねばならない……。
「身の回りのことは、この朱桂にお申しつけください」
言われて急に意識が引き戻された。
あの若い女がひっそりと立っていた。殺風景な病室の中で、やはり唇の色が鮮やかだった。
「朱桂……と、申すのか、そなたは」
声が変に乾いた。
「江陽太守、朱定の娘にございます」
女本人ではなく郭脩が横から言った。梁淵は少し苛立った。
「女だてらに戦に興味を持ち、成都に上がって早々にこの戦のことを聞きつけ、参陣しようとした跳ねっ返りにございます」
「おじ上、その言われようはあんまりです」
朱桂が、求められもしないのに自分から口を開いた。良家の娘にはあるまじき態度に梁淵は驚いた。
「わたくしは、自分に求められているものはわきまえ、必要なことはすべて身につけております。その上で政や戦を学ぶのならば、誰にも文句を言われる筋合いはないはずです」
郭脩の弟の妻が、朱定の姉であったな……と梁淵は縁戚関係を頭に浮かべた。朱定の顔も浮かんだ。南方人の血が入った、やや浅黒い顔の男だ。似ていない。朱桂は母親似であろう。
「こういう者ゆえ、梁淵どのにお付けするのは大変ご無礼ではないかと思うのですが」
「いや、よい。身元もしっかりしておるし、私も下女のように扱うつもりはない。戦に興味があるのならば、むしろよい話相手となろう」
「梁淵どのがそう申されるのなら」
郭脩は一礼し、朱桂もそれにならって梁淵に礼を取った。
女性に求められているものは身につけていると言った通り、その挙措は優雅で、質素な衣服なのに裾がふわりと浮き上がったように見えた。
梁淵もまた、自分の傷ついた体が、熱くなって浮き上がるような心地をおぼえた。