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「馮異自らが率いる一千が、陣を離れたとの報が入った。諸将よ、これをどうみるか」
趙匡がいつものように部下たちに論議を始めさせた。
陣を敷いてすでに半年、山々の頂は白く染まり木々の葉は落ちて風に舞い、寒風の中に立つ兵たちは時折身震いする。
だが本陣たる天幕の中には、真夏もかくやという熱気が充満していた。
勝っている軍の気配である。
「常のごとく、馮異めの詐術でありましょう」
「誘いであろうが、かまわぬ、ならば主将のおらぬ漢の陣を踏みつぶしてやればよいだけのこと!」
「陣を離れたと見せかけて本人は陣内におり、出てきた我らを引きこんで討とうとのことではありますまいか?」
「いや、そうと見せかけ、我らが迷うて動けぬ間に本当に陣を離れ、我らではなく西方にて蓋延と対峙しておられる延岑どのを襲うのでは?」
「いやいや、それには緜道を通らねばならぬが、あの難路はわずかな兵を送るだけで容易に封鎖できる。戻れなくなる可能性の高いそのような動きを馮異がするはずが」
次から次へと意見が語られ、論戦が起こり、様々な側面からの分析がなされる。
しかしどの口どの顔にも共通している、ある思いがあった。
「いずれにせよ、趙匡閣下のお目を逃れられると思うてか、あさはかなる漢将よ!」
そう、ここまで半年にわたり、世に名高い馮異と互角以上に渡り合い、あらゆる策を読み切ってきた趙匡に対する、絶対的な信頼、いや信仰といってもいいほどの尊崇の念である。
「梁淵」
趙匡は、ふくよかな頬を豊かにふちどる髭をしごきつつ、末席でうつむいている若者に声をかけた。
「先ほどから何も語っておらぬな。そなたの存念はいかに」
「はっ……」
梁淵は命じられて顔を上げ、何か語り出そうとしたが、唇が震えるばかりで、意味のある声がつむがれることはなかった。
かつての溌剌とした、自信にあふれた態度はすっかり消え失せている。
そうなるとただの線の細い、戦場よりもうす暗い書斎にこもっている方が似合う、頼りない若者でしかない。
居並ぶ諸将が一斉に嘲笑を浮かべた。
「梁淵どの、たまには敵の動きを言い当ててはもらえぬものか」
「兵法とはまことに役に立つものであるという証拠を、いつ見せていただけるのか、待ち続けてはや半年になりますぞ」
「梁皇后陛下も、梁淵どのの活躍を待ち望んでおられましょうに」
「くっ……」
歯がみする梁淵だが、やはりそれ以上の言葉は出てこない。
「梁淵。この場におる以上、何も語らぬということをわしは許さぬ。正誤は問わぬ、瑣事大事も分けぬ。思うところを好きに申してよいのだ」
「はっ。しかし……わたくしは……この地に参陣して以来……ただの一度も……閣下のお役に立てたことが……ございませぬゆえ……」
搾り出すように梁淵は言った。
事実だった。
「敵の動きは読み違え……敵の策は見抜けず……敵の謀略を信じこみ……信ずべき味方を疑い……」
「まったくだ」
范植という者が、梁淵にのみ聞こえる小声でつぶやいた。
趙匡配下の武将である。
反間の計をかけてきた馮異により、漢軍に寝返ろうとしているという疑いを抱かれた。
彼の処遇についてみなが意見を戦わせる中、梁淵は裏切りを真実とみるべきだと主張した。
だが実際には、裏切っていたのは范植の部下の尋騰という人物であって、范植本人は無実だった。
范植を信じると決断した趙匡により、成家軍に疑心暗鬼がまかれることは防がれ、范植は趙匡にひれ伏して忠誠を誓ったのだった。
その范植の視線を受けて、梁淵の体はさらに小さくなった。
「そ……そのような……わたくしが……策を述べるなどとは……おこがましく……」
「この席で語ったことについて、正誤は一切問わぬ。また問うてはならぬとみなにも常々言い聞かせておるのにのう」
趙匡は、梁淵ではなく諸将に憂い顔を見せ、うつむく若者にあらためて穏やかに語りかけた。
「ならば、策でなくてもよいわ。わしの問いに、ただ一言でよい、答えよ。馮異は、離れた部隊におるか、それとも本陣にひそんでおるか、どちらと考える?」
「はっ…………征西大将軍にして、北地、安定、天水三郡の太守を兼ねる、漢軍の宿将にして劉秀の盟友……それほどの者が、わずかな兵のみを連れ自ら伏勢となるとは考えづらい……己が討たれれば、率いる一軍のみならず戦線全域、いや漢という国そのものにとってどれほどの損耗となるかもわからぬほど、馮異は軽率な者ではない――
と、兵法に即して考えれば明白なようでありますが、馮異もまた深く兵法を学びし者、虚実を操り我らを罠にはめんと、常道からすれば本陣を動かぬはずと思いこませて実際は伏勢を率いていると、わたくしは推察いたします……」
「なるほど」
趙匡は満足げにうなずき、よく笑む細い目をさらに細くした。
そこに、刃のような光が宿った。
「それは、そなたの本心であろうの?」
「う」
指摘されて、梁淵はうめいてしまった。
目が泳いだ。
「わしは確かに、思うところを存分に述べよと命じておるが、周囲に迎合し思ってもおらぬことを語れなどとは命じておらぬ。またそのような不実を許すつもりもない」
「ははっ……!」
梁淵は、一気に倍の年齢にもなったかのような、若々しさを失った顔色をして、きれぎれに答えた。
「閣下の……おっしゃる通り……今、わたくしは……自らの判断と、逆のことを申し上げました……」
「では、馮異は本陣にそのままひそんでおると、そなたは見るのだな?」
「左様にございます……。
これまでの馮異のやり口からすると、自ら伏勢を率いて敵前に出るということもあり得る……そう思わせて……実の所は、現在の局面においては、常道を決して外すまいと……わたくしは、愚考する次第にございます……」
「うむ。よくぞ言うてくれた」
趙匡は慈父のごとき笑みを浮かべて、床几から腰を上げると自ら梁淵に歩み寄り、その肩に手を置いた。
「それでよい。それでよいのだ。正誤は問題ではない。そなたの役目は、ひたすらに己の知謀を限界まで搾り出し、他者の目など気にすることなく、最も正しいと信じる策を述べることのみぞ」
「はっ……」
「決断の重みは、帥たるこの趙匡のみが背負う。その覚悟をもってわしはここにおる。それとも梁淵よ、そなたはわしが帥の重責を担えぬとでも思うておるのか?」
「い、いえ、そのようなことは、決して!」
「漢の高祖は項羽に七十一度敗れつつも、最後の勝利をもって玉座を手にしたと語ったのはそなたではなかったか? どれほど誤りを重ねようとも、そなたの意見が七十二戦目の大勝利を導くやもしれぬのだ」
「ははっ……!」
若者の目に、光が戻ってきた。
舌も回転し始めた。
「……一千という数は、万を超える軍勢が対峙するこの戦場においてはそれほどのものではありませぬが、馮異自らが率いているとあればその対処に三千以上、できれば五千を向け、確実な包囲、撃滅をはかるのが当然にございます。
しかし、馮異本人がいると思いこませ我らの兵を割かせれば、正面にて相対する我が軍と漢軍には兵力差が生まれます。その上での激突とあらば漢軍有利。見せかけの馮異隊一千は捨て石、我が軍本隊の兵力削減こそが馮異めの狙いとわたくしは見るものにございます。
ならば、その目論みにはまったと見せて多めに対処の兵を割き、しかし実際は足止めの数百を残すのみにして他は反転、主軍とぶつかる漢軍に横合いから突入する、馮異の策を逆手に取る策をわたくしは進言いたします」
「うむ。ようやく前のそなたに戻ったようじゃ。これからも頼むぞ」
「はいっ!」
梁淵は満面を輝かせ、深く趙匡に礼を取った。