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「なんと……」


 馬上で梁淵(りょうえん)は幾度目かわからぬ嘆声を漏らした。


 夏である。天地は命の盛りを迎えている。空は青く山の緑は濃厚だ。

 そして土の上には、鮮血と死がまきちらされていた。


 いたる所に兵のむくろが転がっている。矢を何本も突き立てて仰向けに。鉾に突かれて血みどろになって。突撃する騎馬に踏みにじられた無残きわまりないしかばねも目に入った。燃え落ちた陣幕の煙がまだ幾条も立ち上っている。


 敗走した漢軍の、陣の跡であった。


「梁淵よ、何を見ておる?」

「閣下」

 梁淵は素早く下馬して趙匡(ちょうきょう)に礼を取った。


「初陣を終えて、どうだ?」

「は……頭で考えていたことと、現実とのあまりの違いに、言葉を失っております」


 趙匡は、配下の諸将に存分にしゃべらせた後、ぴしりと笞をひとつ鳴らし、命令を下した。

 それが――攻撃だったのだ。


 しかも、小手調べでも牽制でもない、兵糧を保持する役目の部隊すらつぎこんだ総攻撃。


 まるで背水の陣を敷いたかのような、蜀から赴いた兵すべてをつぎこんだ死に物狂いの猛攻に、漢軍は驚くほどにあっけなく崩れた。



「まさか、あの漢軍が、このように……」

「我らが、士気を上げるために、到着直後に攻めかかってくることは予想していただろう。しかし全てをなげうってとまでは思うまい。我らが早々に壊滅するようでは援軍の意味がないからの。わしはその程度はわきまえておる将と評価されていたはずよ」


 趙匡は、元からふくよかな頬をさらに深く笑ませた。


「漢軍の将はみな戦巧者だ。しかし、巧者だからこそ、我らが後先考えぬ攻撃をしてきたのを見て、想像してしまったのだよ。これは、他にも軍勢がいると。側面あるいは背後に回る伏勢がいるからこそ目の前のこの敵は後を考えない勢いで攻めてくるのだと」

「むむむ……」

「しかし、すべての将が同じように考えたわけではない。ゆえに敵の動きに乱れが生じた。後はそこにつけこむのみ」

「…………」


 梁淵は戦の展開を思い返した。


 確かに、成家軍の猛攻を受けた漢軍の動きはやけに鈍かった。前衛部隊が突き崩された時、本来なら即座に対応すべき中軍の動き出しが遅く、そのせいで陣形は引き裂かれた。形成不利とみて後退を始めた段階でも、ある部隊は踏みとどまって味方を救出する動きを見せ、またある部隊はとにかく距離を取ろうと一目散に遠ざかっていった。


 漢軍の将がそれぞれの判断で動いてしまったゆえであることは、兵法を学んで来た梁淵から見て明白なことだった。



 ――梁淵は、成家国の皇帝たる公孫(こうそん)(じゅつ)の、皇后の一族に連なる若者である。

 中原の戦乱を逃れ蜀の地に至った学者たちから、様々な学問を教わり、身につけてきた。


 中でも兵法には惹かれた。六韜三略(りくとうさんりゃく)を読みふけり古今の戦の記録をひもとき、特に『孫子』に熱中した。


 前線に立つ武将たちの多くが兵法を知らず、自分の狭い体験にのみ基づいて方針を決定することについて、内心侮蔑していたものである。



「して梁淵よ、次に漢軍はどう動くとみる?」

「はっ……」


 問われて考え始めると、初の実戦で砕けかけていた自信がよみがえってきた。


 兵法とは、いかなる時でも判断の基準を示してくれる偉大なもの。

 それに従えば百戦百勝という万能の方策などではない。そんなものなら兵法を学んだ者同士が戦えばどちらも必勝ということになるではないか。そうではない。兵法とは、学び、用いる者次第で、いかようにも変わるもの。


 そして自分には、兵法を生かすに足る才能が備わっているはずだ!


「攻めてくるものと」

「ほう」

「初戦に敗れた漢軍は、意気阻喪しておることは明白。

 なれば、歴戦の将たちは、兵の気迫を取り戻さんと、我ら成家軍取るにたらんという事実を作るべく、我らの先鋒部隊のみを壊滅させるような姑息な戦術を用いてくるものと見まする!」

「ふむ」

 趙匡は内心を一切読ませず、ふくよかな頬からたっぷりと生えた髭を指でしごいた。



 ――次の戦いは、起きなかった。


 緒戦に敗れた漢軍は、そのまま深く兵を引き。

 軍勢を分割した。


 來歙(らいきゅう)を主将とする軍を本来の目的である隗純(かいじゅん)征伐に向け。

 馮異(ふうい)を主将として新たに編制し直した一軍のみを、成家軍に向けてきたのだった。



「なんと……」

「漢軍は歴戦の者が多きゆえに、小手先の勝利に頼らずとも、兵の士気を立て直すのはたやすいことよ」

「むう……しかし、兵の数は先の半分にも満たず……あれならば打ち倒すのも容易かと……」

「軍の強さは兵の数のみで決まるものではないぞ。

 先の戦いの漢軍は、それぞれが総大将をつとめるに足る力量の者が複数そろっていたがゆえに、かえって全体の足並みが乱れたが、馮異(ふうい)のみが指揮するあの半分の軍の方が、先の全軍よりもよくまとまった、はるかに手強い相手であろう」


 趙匡に諭されて梁淵は肩を落とした。

 自分は兵法を深く学んだつもりでいたが、実戦の場になるとこれほどにあてにならぬものか。自分が想定していなかった要素がこれほどに多いものか。


 ……いや!

 これは貴重な経験を得られたと考えるべきだ!


 緒戦においてこのような誤りを体験できたことは、きわめて幸運なことだ。

 生死をかけた死闘のさなかで判断を誤ったならば、即座に自らの命、いや自分に従う無数の兵士たちの命を失うことになったはずなのだから。


 この経験を踏まえ、これからのすべてが、我が血肉となる!


 梁淵は、これまで以上に意気軒昂となって趙匡に進言し続けた。

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