11(完)
成家軍の陣営は沸き立っていた。
漢軍が宿営地から大挙して出撃してきたとの報が入ったのである。
ほぼ一年に渡った戦陣の、終幕を迎える時が来たと、上から下まで全ての者が確信していた。
「綸城からの使いはまだか。梁淵を早くここへ呼べ。あやつが到着したらいよいよ決戦じゃ。今度こそ馮異の首をあげてみせる」
「殿」
普段の穏やかさをかなぐり捨てた、血気盛んな趙匡に、霍成が声をかけた。
二十年以上戦場を共にしている、腹心中の腹心である。
「なにゆえ、あの若僧に、それほどにお目をかけますか。閣下ほどのお方が、何の役にも立っておらぬ未熟な進言を連日待ちわびて、諸将垂涎の美女を二人もあてがって」
「ふむ……お前が言ってくるということは」
「はい。ほぼ全ての将が、疑念を抱いておりまする」
「ならば仕方がないか。これより話すことは秘中の秘である。絶対に外に漏れてはならぬ話だ。よいな」
「はっ」
念入りに人払いを確認した上で、趙匡は腹心に胸襟を開いた。
「世辞はいらぬ。お主ならわかっておろう。わしは、凡庸ではないつもりだが、あの馮異めに勝てるほどの将器は持ち合わせておらぬ。
しかし陛下より命を受けた以上、戦わぬわけにはいかぬ。
そこで思いついたのが、あやつよ」
「梁淵、ですか」
「あやつは知らぬだろうが、以前、成都で見かけたことがあってな。
同年代の悪友たちと賭博場へ忍んだ直後だったようじゃ。
みな、喜びつつ、梁淵を慰めておった。
梁淵ひとりがぼろ負けし、他の者は梁淵の逆に賭けることでしこたま稼ぐことができたらしい。
『お前、学問ならすごいのに、バクチになると絶対に負けるよなあ』とひとりが言ったことがわしの頭に妙に残った。
それで、調べてみたのだよ。
見抜いたのは、恐らくわし一人だっただろう。
あやつは、『必ず間違える』異能の持ち主だったのだ」
「必ず………………間違える……?」
「その通り。はじめから答えのある学問のようなものではない、答えなき場において、あやつが自らの意志で選んだものは、必ず間違いとなる。
賭け事も、戦の采配も、何もかも――必ず、だ」
「そのようなことが……?」
「余人の誰も信じぬであろう。お主も、その顔を見ればな。
しかしわしは信じた。否、信じるより他になかった。
中原を制した名将、征西大将軍馮異に対抗するには、な。
策が全て当たり、采配が全て的確な者は、後の世に名将として讃えられよう。
しかし、その策、その采配がことごとく外れる者というのもまた、名将に匹敵する才なのではないか?
わしはそう考えたのだ」
「なんと……」
「無論、はじめから確信していたわけではない。もしかしたら、程度だ。幕僚に抜擢こそしたが、役立たずならば切り捨てるつもりでおった。
しかし、だ。
思い出してみよ。今回の戦陣の最初から、あやつの口にする策は、全て外れておっただろう?」
「あ………………いや…………まさか…………!」
記憶を探り、思い至ったらしく汗をいっぱいに浮かべた腹心の顔を、趙匡は満足げに見やった。
「実戦を経験させて、わしの期待は、確信に変わった。
あやつが守るべきだと言えば攻めるのが正しい。あやつが敵は攻めてくると言えば、決して攻めてこない。伏兵があると言えば決してない。伏兵は絶対にないと断言すれば、絶対にある」
「…………!」
「大まかな情勢を判断させるのは、あやつの策は間違いとしても他の選択肢が多すぎるゆえあまり役に立たぬが、状況を絞り場面を限定させ、二者択一の判断を必要とする局面まで持っていけば――必ず外れる、というのはとてつもない武器になる。お主も一隊を率いる身であればわかるだろう」
もはや霍成は口をぱくぱくさせるばかりだ。
「だからわしは、あやつの、自分自身での考えを述べさせることに意を砕いた。あやつの献策は全て間違うゆえに誰もが見下す中、若者を育てる体を装い、あやつ自身の率直な意見を吐き出させ続けた」
「…………」
「あの山中では肝を冷やした。何も知らぬ者が、軍令違反としてあやつを馬から叩き落としたのだからな。
命をとりとめたのは幸い、今後危険な場に立つことがないように、あの朱桂という女に言い含めて、脚が治りきらぬようにさせた」
「そこまで……」
「見よ」
趙匡は竹簡を何枚か示した。目を通した霍成の顔からあらゆる表情が消え失せた。軍の副官をして意識を漂白させるほどの衝撃だったのだ。
「あやつに問うたことの答えよ。どうだ?」
「み………………見事に……………………全て、的確に外れてございます……」
「その通り。あやつが漢軍が動くと言った日は、漢軍は決して動かぬがゆえに、全軍に休息を与えることができた。あやつが来ないと断言した日には必ず来るゆえ、待ち受けることができた。調略をかけるべきと断じた敵将には決して誘いをかけてはならず、警戒すべきと語った敵の動きは一切気にする必要なしじゃ。
おかげでこれまで我が軍は連戦連勝、意気は天を衝くばかり。
わかっただろう。あやつこそ、わしの本当の知恵袋なのだ。あやつなしでは馮異めに、漢に勝利する道などとても見えぬのだ」
「は…………ならば、女をあてがったのも?」
「あの朱桂という女は、小賢しいばかりで戦場では邪魔なだけ、しかし重職にある者の娘とあっては粗略に扱うのも――というところで、梁淵の相手に丁度よかったからな。
手を出してくれれば問題なかったのだが、あの若僧、変なところで潔癖で何もしようとせなんだ。
下手に欲望をためこんで肝心の戦から気が逸れても困る。
ゆえに、あの胡人の女よ。
何のしがらみもない遊女相手に、ほどよく精を放ちすっきりし、余雑なるものの全てを振り払って、戦のみに専念させようと、な。
戦機は熟しておる。次の戦いでこのいくさ全体の行く末が決まる。あやつには、己の才をたのみ歴戦の諸将の前で胸を張る、傲慢な若者として戻ってきてもらわねば困るのだ。
全ては我らの勝利のため」
「なるほど……感服いたしました。
それがしも、あの者をやたらと気にかけておられるのは閣下の酔狂と思っておりました。
まさか、そのような秘事が隠されておろうとは……!」
「誰も気づくまい。
馮異めも、我が陣営をしきりに探っておるようだが、まさかあの無能な若僧こそが我が切り札とはゆめにも思うまい。
全てを間違えるがゆえに正解を浮き上がらせる。史上最低の愚将は、使い方ひとつで史上最高の名将たり得るのだ。
あやつが到着し次第、我が軍は全軍あげて出るぞ。梁淵さえおれば、馮異の首を獲れるのだ!」
陣幕の外から、伝令の到着を告げる声がかかった。
綸城からの急使だった。
※
「…………?」
己の腹から生えている短刀の柄を、梁淵は呆然と見つめた。
熱湯がその周囲から勢いよく吹き出している。鉄さび、いや血の臭いがする。腹の中が異様に熱い。熱すぎてものを考えることができない。なぜか天井が視界に映っている。
騒ぎわめく声が聞こえる。女の声。激しい争闘の気配。
視界がわずかに動く。翠の瞳と、紅い唇が見える。胡麗英が、朱桂を羽交い締めにしている。朱桂の手や衣服は血にまみれている。どうしたというのだろう。
「あんた! 何てことを!」
「離せ! あいつにとどめを!」
「何で! どうしてだよ!」
「もう耐えられぬ! これほどの恥辱!
女がと言われようとも戦に出たかった! 采配を振るいたかった! 鍛え、学んできた! だからこそ、将として部下を率いるにはこういうこともできねばならぬと言われ、己の意にそぐわぬ任務を与えられても耐えてきた! こんな役立たずの世話役でもな!」
「役立たずって!」
「偉ぶって兵法など語っていたが、何一つ的中させたことがない! 閣下のご下問への答えはすべて外れていた! 当たっていたと嘘をつくよう命じられそうしたが、嘘と気づきもせず自慢げにするにやけ面は吐き気がした! 嘘をつき己を殺し続ける自分にも嫌気がさした!
それでも耐えた、三月も耐えた! 耐えていた!
なのに、よりにもよって、お前のような淫売と比べた上で、私を妻にしたいなどと!
あり得ない! 絶対に許せない!」
「馬鹿!」
殴打の音に、またひとしきり争闘の気配がして、梁淵を翠の瞳がのぞきこんだ。
「あんた! しっかりしな! 西へ行くんだよ! あたしと一緒に!」
「あ…………」
(よくわからぬが、趙匡閣下、お待ちください、この梁淵が、次こそは必勝の策を…………朱桂どの、私は、この戦が終われば、そなたを妻に……私は正しい相手を選んだのだ……胡麗英ではなく、そなたこそ、我が伴侶にふさわしい…………そなたの誇れる夫であるために、決戦における策を……考えねば……策を……正しい策を…………そうだ、西へ行くのだ……)
考え続けようとしたが、梁淵の意識は混迷に包まれ、そのまま無限の闇に落ちていった。
――後代に記された歴史書、「後漢書」馮異伝にはこう記されている。
「及隗囂死、其将王元、周宗等復立囂子純、猶総兵拠冀。公孫述遣将趙匡等救之。帝復令異行天水太守事。攻匡等且一年、皆斬之。」
「隗囂が死亡し、その武将の王元や周宗らは、隗囂の子隗純を立てて、なお冀城に拠って抗い続けた。公孫述は趙匡らを派遣し救援させた。光武帝は馮異を天水太守に任命した。攻めること一年、趙匡以下の将をみな斬った。」
後漢書には戦闘の経緯が記されていないため、光武帝配下でも屈指の名将たる馮異がなぜ趙匡を破るまで一年もかかったのかは、今となっては誰にもわからない。
読んでくださってありがとうございました。




