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梁淵は惑乱し、腕を空中で奇怪に動かし、立ち上がろうとして果たせず、床に転がった。
胡麗英が次にこの部屋に来る時は、あの豊かな体に薄い衣服のみをまとい、整った顔立ちに化粧も施し、男をそそる西域の香なども焚きしめて、媚態の化身となっていることだろう。その肌は恐ろしいほど熱く、よく肉がついていながらも柔らかく、触れた指も体もどこまでも埋まっていきそうな心地が……。
「いや、待て、まずい、そんな、いかん……だめだ!」
首を振って幻影を追い払おうにも、若い梁淵の肉体は素直に期待し反応してしまっている。顔が異常に熱い。
「あり得ぬ。あり得ぬぞ……あれは商売女なのだ。体を売る下賤な蛮族なのだ。会って間もない男の精を……せせ、精を……そのような……浅ましい……!」
拒む言葉を口にすればするほど、翠玉の瞳が梁淵の意識の中で大きくなってくる。
あの目に嘘は感じられなかった。作為も読み取れなかった。真摯なものだけが伝わってきた。
彼女に先導されて馬を走らせる光景が脳裏に浮かんだ。はるかな西の地――成都近郊の広々とした農村地帯とは何もかもまったく違うだろう、空と草の間を二人で進む。見たことのない景色、踏んだことのない土地、言葉すら通じぬ異国へ、翠の瞳の彼女と共に、どこまでも……。
「どうなされました」
紅い唇が、幻想を断ち切った。
朱桂だった。
「あの女に、何か?」
「いやっ、何もっ、されてはおらぬぞ、何も、おかしなことは!」
「…………」
朱桂の冷ややかなまなざしが、床から見上げる梁淵の全身を這い回った。
豪勇の敵将に追い回されているような心地を梁淵は味わった。
「そうおっしゃるのでしたら、よろしゅうございます」
普段通り素っ気ない朱桂の態度が、今はむしろありがたかった。
「趙匡閣下からの言伝です。もうじき、閣下は梁淵様の罪をお許しになり、以前と同じように閣下の傍らにあって策を進言する立場にお戻しくださるとのことです」
「なっ!? なんだと!? 本当か!?」
「はい。先ほど連絡が。まだ内密にとのことでしたが、支度もあるでしょうから、梁淵様にお伝えする分には構わないとの仰せにて」
「おおおお……!」
梁淵は天上を仰ぎ、そこに浮かぶ趙匡のシルエットに心から拝礼した……が。
「……むう……」
一瞬は頭から消えた翠の瞳が、すぐによみがえってくる。
この後、日が落ちたら忍びこんでくるだろう淫猥の化身の姿が頭をよぎる。
趙匡の許しがあってのこととなると、拒む方が失礼にあたる。
戦の前に女を抱いて気力を充実させるのは、戦士ならむしろ当然とされる。
梁淵の肉体も、若者らしく、女体を求めてしまっている。
「……何か?」
「いや……」
梁淵は朱桂を床から見上げた。
相変わらずの、華美さのかけらもない衣服――しかし、胡麗英と真逆に、質素だからこそかえって、内に秘められたなまめかしい肉体が強く意識され、唯一華やかな紅い唇に視線が引きつけられる。敵城に一ヶ所だけ設けられた開口部のようなもの。そこを攻めずにはいられない。見つめずにはいられない。
「もう……三月を過ぎたか」
「はい?」
「そなたと過ごすようになってから」
「……はい」
梁淵は起き上がり、最初の時よりさらに精緻になった地形図に目を向けた。
朱桂に材料の調達を頼み、作り上げて、最初に自軍敵軍双方の駒を配置した時、何か言いたげだったので水を向けてみると、梁淵の思い違いを二ヶ所訂正してくれた。
梁淵が思案にふけり『孫子』の一節を口にすると、すぐ次の段を暗唱したので驚いたのもつい先ほどのように思い出せる。
差し手口をきかないように自制しているものの、視線の動きやわずかな表情の変化から、自分と同じように戦の分析に強い興味を示していることを感じ取った時の喜び――同志を見つけた高揚感。
梁淵が成家軍、朱桂が漢軍として駒を動かし模擬戦を行ったこともあった。その逆もあった。朱桂が会心の一手を放った時、紅い唇はわずかにやわらかい弧を描いた。
同じものを読んでおり、同じ水準の話ができて、同じ場で時を過ごして何ら気負うものがなかった。身分も釣り合った。年齢も近い。そして……趙匡の許しはすでに得ている。
「朱桂どの」
梁淵の意識の中に、まだ翠の瞳はあった。
だが梁淵は紅い唇に向いた。
「大事な話がある。聞いてほしい」
「はい」
「もうじき戦場に出していただけるのならば、私がここへ戻ってくることは二度とないだろう。
この部屋を満たしてくれたのは朱桂どの、そなただ。
この三月、部屋から出られずとも私が満たされていたのは、そなたのおかげだ」
朱桂は表情を変えず、無言で梁淵を見つめている。
さあ言うぞ。梁淵の心臓が激烈に高鳴った。戦を決する重大な采配を振るう時の総大将の心地というものを今、感覚として知った。
「私は、そなたを好ましく思っておる。
重大な戦場を前にし、またあの女が現れて、はっきりわかった。
他の誰よりも、朱桂どの、あなたが好ましい。
馮異との決戦を終えてからでいい、私と夫婦になってくれ」
言い切った。
梁淵の頭の中は真っ白になった。崖から落下してゆくような心地。生か死か、自分にできることはもう何もなく、結果を待つのみ。
「…………!」
朱桂の表情が動いた。
目を見開き、紅い唇が左右に引きつって広がり……。
うつむき、しゃがみこんだ。
かすかなうめき声を漏らし、震えだし、その首筋から耳までみるみる血の気を宿し、鮮やかな色合いとなった。
「わ…………わたくし…………は…………!」
とぎれとぎれの声に、梁淵も身震いした。
嬉し泣きと梁淵は判断した。耳が喜んだ。やはり、朱桂も自分のことを慕ってくれていた。男としてこれ以上の喜びはない。
「朱桂どの」
翠の瞳は完全に消え失せた。
自分は朱桂を選んだ。後はただ、胡麗英が入りこめないように、二人が固く結びつくだけだ。
梁淵は曲がった脚を少し引きずりつつ、朱桂へ歩み寄る。
その肩に手を置いた。強い震えを感じ取った。肩から背へ腕をすべらせ、熱い体を包みこもうと――。
朱桂の肉体が弾けるように動き、その腕が、素早く突き出された。
梁淵の腹部に、激烈な熱が生まれた。




