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「先ほど届いた報告です。閣下からはこちらを」
朱桂が竹簡の束を卓に置き、それとは別に細い竹簡を梁淵に渡した。
「むう……」
梁淵はすぐにそれらに目を通し、部屋の中央に鎮座する地形図上の駒を動かし始めた。
木切れで作った駒には細筆で色々な文字が書きこまれており、書かれすぎて真っ黒になっているものもある。
「兵糧の蓄積……時期は……騎兵……戦力……馮異……漢軍は……増援があるとすれば……」
ぶつぶつ言いながら、地形図と竹簡にひたすら視線を往復させ、考えこみ、動かなくなる。少しするとまたぶつぶつ言い、まっさらな竹簡に何か書きこみ、駒を動かし、停止し……その繰り返し。
「すごいもんだねえ」
横合いから胡麗英の声がかかった。
運びこませた自分用の椅子に腰かけ、悠然と脚を組んでいる。
この城に現れてから数日のうちに、まるで女城主のように堂々と振る舞うようになった。
「む……」
「邪魔しちゃった? 気にしないで、続けて」
そうは言われても、一度気が逸れてしまったので、梁淵としてはそれまでのようにはいかない。
胡麗英の、よく肉のついた長い脚が目の毒でもある。
気がつけば朱桂はいなくなっていた。いつものように梁淵の食事の支度や様々な用事を片付けに行ってくれているのだろう。
「そうやって、ずっと戦のことばっかり考えてるわけかい」
「それが私の役目だ。戦士が体を鍛え武技を磨くように、私は知恵を巡らせ考え続ける」
「体も動かさないで」
「頭を十分に働かせるために、時々歩くようにはしているぞ」
梁淵は傍らの杖を示した。彼の片脚は折れたまま歪んで固まってしまっていた。
「その脚……」
「聞いているだろう。戦場で、恥をさらした。もう痛みはないが、走るのは難しい。馬を許してもらえるようになれば、今度こそ万全に鍛え上げて戦場に出てみせる。それが、治療してくれた医師や、歩けるようにしようとする私を手助けしてくれた朱桂どのへの恩返しでもある」
「そうかい。……」
胡麗英は何か言いたげに翠の瞳を梁淵に向け、眉をひそめた。
だが梁淵は、続きを促すようなことはしなかった。自分自身で口に出したことで、あらためて気合いが入った。頭が整理されてゆく。視線はまた地形図に向いた。
「そなたの姫と一族が我が方についてくれた。だが馮異めのもとにも増援が加わったともいう。この対陣ももうじき一年になろうとしている。決戦も近い。無数の者が死ぬ。
だが妙策がひとつ浮かべば、敵の策をひとつ見抜ければ、味方の死者が減り戦に勝てるのだ、考えずにはおれぬ。『孫子』にもある、『算多ければ勝ち、算少なければ勝たず。いわんや算なきに於いてをや』だ。勝算を作らねばならぬ。そのためには一秒たりとも頭を休めるわけにはいかぬ。考えることが私に与えられた絶対の任務だ」
「よくわからないけど、ずっと考えてるなんて、大したもんだ。あたしには無理だな。こんなに天気いいのに、部屋の中で考え続けるって、おかしくなりそうだ」
「興味がないなら、外に出ていて構わぬぞ」
「いや、もうちょっと見ていくよ」
「面白いものでもあるまい」
「あんたが戦場を見るように、あたしは男を見てるのさ」
「からかうでない」
梁淵はことさらに顔をしかめて、追い払うように手を振った。
胡麗英は、到着したその夜にも梁淵の寝床に入りこんできそうな素振りを示していたのだが、ここまで実際にはそういう真似をしていない。
そのくせ昼間には、梁淵が軟禁されているこの部屋にふらりと入りこんできては、何が面白いのか梁淵の様子をじっと見てくる。
最初のうちは戸惑ったが、数日続くと慣れてきた。
番犬のように警戒していた朱桂も、彼女を置いて出ていくのが当たり前になっている。
「さて……」
梁淵は、最新情報に基づいて地形図上に配置された駒を移動させたり文字を追加したりした後に、うやうやしい手つきで一枚の竹簡を手に取った。
「それは?」
「趙匡閣下からのご下問だ」
朱桂が、状況報告の束とは別に手渡してくれた一枚である。
「連絡のたびに、未熟な私を成長させるべく、様々な問いを与えてくださる。
たとえば馮異の下の武将の名をあげ、この者に調略を試みて成功すると思うか――我が軍の編成のうちとある部隊が弱いように見えるが強化すべきかどうか――大きなことから細かなことまで、様々な問いかけをなされ、私は調べ尽くし考え抜いてそれに答える」
「ふうん。で、どのくらい当たるものなのさ」
「半々ぐらいだな。すぐに結果が出るとも限らぬ事柄もあるし、当たったからといって戦そのものが有利になるとも限らぬ……まこと、兵を率い軍を動かすというのは学べば学ぶほど奥が深い。このやりとりによって様々なことがわかってきた。私は以前よりはるかに成長している。全て閣下のおかげだ」
「ふうん。あの将軍さまがねえ」
「閣下を愚弄するのは許さぬぞ」
「まあ、自分たちの総大将の文句は言えないか。仕方ないね」
「何が言いたい」
「あたしは、好きになれなくてねえ」
「好みというのは人それぞれであろう。そもそも閣下には奥方も子も、孫もすでに数人いらっしゃる」
「お子様だねえ。そういうことじゃないよ。あの陣営全体の感じがさ。戦というより、バクチにのめりこんでる連中みたいで」
「馬鹿を申すな。みな自らの命と、それ以上のものを背負い、全てを懸けて敵に向かっておるのだ。戦場というものがわからぬとはやはり女子か。仕方ないのう」
激発すると己の小ささを示すことになるので、梁淵は趙匡の振る舞いを真似して、笑みを作り余裕たっぷりに言ってやった。
しかし胡麗英は、翠の瞳を少しも揺るがさずに梁淵に向けてきた。
「これは忠告だけど、あの女――朱桂だっけ、ありゃろくでもないよ。やめときな」
「……それこそ、ろくでもない言いがかりにすぎぬな」
「女の勘、信じない?」
「当たり前だ」
「ま、来て間もないあたしに言われても信じるわけないか。仕方ないのう」
胡麗英は梁淵の真似をすると、天井を向き、大きく伸びをした。
強調されたきわめて女性らしい部位から梁淵は慌てて目を逸らす。
「でも、あいつがろくでもないのはほんと。あんたを見る目、ありゃ主人の全財産奪って逃げようとしてる召使とか、夫を毒殺しようとしてる妻の目つきだわ」
「馬鹿馬鹿しい」
「親切で言ってあげたのになあ」
「私がこのようなところに閉じこめられている罪人ではなく、閣下の傍らにあってお力になっている身であれば、そなたのことを離間を目論む馮異の間者と断じたところだ」
「あたしが?」
胡麗英は両腕を広げて体を見せつけた。
「こんなにわかりやすい間者なんてのがいるもんかね」
「わからぬぞ」
豊かな体に視線を向けないように自制しつつ梁淵は言う。
「あからさますぎるゆえ、罠ではないだろうと思わせて引っかける、というのは兵法にもある。虚実を駆使するのは馮異の得意とするところよ」
「ふうん。じゃああたしが間者だったとして、目的は何?」
「だから言ったろう、私が閣下の元におるならば間者が接近するのもわかる。だが今の私はそうではない。この城について調べるならここにいるのもおかしい。ゆえにそなたは間者ではない」
「色々めんどくさいねえ」
立ち上がった胡麗英が、梁淵に近づいてきた。
座ったままの梁淵より翠の瞳は上にある。
無言のまま、じっと見つめられる。
梁淵の胸が変に高鳴った。
「な、なんだ」
「決めた。西へ行こう」
「……は?」
「こんな所にずっと閉じこもってるからいけないんだ。外出て、思いっきり馬を走らせよう。それがいい。あんたにはそれが必要だ」
「ふざけるな。脱走しろというのか。そのようなことができるものか」
相手が女性とあって語気こそ抑えたが、梁淵は眉を鋭くつり上げた。
「監視はゆるいよ」
「話にならぬ。出て行け」
「ま、その脚じゃ難しいよね――逃げられないように、そうされたんだし」
「……なに?」
梁淵の理解は遅れ、ぽかんとした顔をしばらく続けた。
「馬から落ちて脚折ったやつ、何人も見たことあるけど……それ、治りかけの所に、無理させたんだね。動かさずにいれば元通りになっただろうに」
「そんなはずはない。治療してくれたのはきちんとした医師で、朱桂どのも私に付き添い、転ぶ私を何度も励まし、手助けを――」
「だから、それが狙いだったんだろ。あんたをまともに動けない体にするため」
「嘘だ」
考えてではなく、反射的に梁淵は口にしていた。
「嘘だ。そのようなこと、あり得ぬ。そんなわけはない。我々を愚弄するか。出て失せろ」
「はいはい……と言いたいところだけど」
胡麗英は梁淵の腕が届かないぎりぎりの距離を保って立ち、またじっと梁淵を見つめると――。
不意に、柔らかい笑みを浮かべた。
「このまま出て行ったらあたし、あんたに他人の悪口吹きこんだだけの、いじわる女になっちまうよね」
「その通りであろう!」
「だからさ、そうじゃないってこと、教えてあげる」
胡麗英の笑みに、蠱惑的なものが含まれた。
翠の瞳がうるおいを帯びた。
梁淵は思わず生唾を飲み――それから慌てた。
「な……何をするつもりだ」
「今晩、来るね」
「!」
「なんかもう、あんたのこと、放っておけない。色々ひどすぎる。あんたはこんなとこにいちゃいけない。あたしを信じてもらうために――やること、やっちゃおう。うん、それがいい。あんたをあたしのものにしてから、二人で西へ行って、馬をどこまでも駆けさせよう」
「ま、待て、そのような、入れぬぞ、ここには来させぬ!」
「最初に言ったよね、将軍さまから、気に入ったならあんたの精を搾ってもいいって言われてる。許可もらってるんだから、扉向こうの兵隊も、この城のいちばん偉い人も、あたしの味方だよ」
「そんな馬鹿な!」
「そうと決まれば、色々支度しなくっちゃね。待ってな、初めてだけどやり方はちゃんと教わってる。この国にはない女の技、たっぷり教えてやるよ……」
固まる梁淵の目の前で、胡麗英は蛇のように扉を滑り出ていった。