俺達の体育祭戦線
この話は狩也君の成長物語でもあります。
先に戻った筈の碧花が見えなかったので、訳もなく俺は携帯を取り出し、友達として追加された萌のトークにお礼を述べておく。俺が壮一に勝てたのは、偏に彼女が別人に成りすましてくれたお蔭である。彼女が居なければ俺も妨害を防げず、結果、碧花から抱擁を貰う事は出来なかっただろう。
返信が来た。
『気にしなくていいですよ~!』
彼女は文面でもこんな調子らしい。気にするなとは言われるが、気にしない方が無理というものだ。俺は至って普通の人間であり、良い事をされれば恩義を感じるし、悪い事をされれば憎悪を感じる。しかし彼女の姿勢も否定するつもりはないので、俺は一方的にお礼を押し付ける事にした。
『いや、マジで有難う。何か変な事されなかったか?』
『大丈夫です。そんな大した事は話しかけてないので』
『なんて言って近づいたんだ?』
『壮一せんぱ~いって言って、カメラを向けたら引っ掛かりました。全然警戒とかしないんですね』
『アイツは自分で策を弄する事はするけど、自分が策に嵌まるとは微塵も考えてないからな。あ、狙われたら不味いから、ちゃんと着替えとけよ?』
クオン部長と同じ原理ではないが、変装した状態の萌を認識させておけば、壮一にとってはあれが彼女の本当の姿なので、解いてしまえば彼女は別人として認識される。まあこれは女子の顔をきちんと見る稀有な男子にのみ起こる問題であって、あいつはばいんばいん…………じゃない。胸しか見ていないだろうから、多分着替えなくてもバレないとは思う。どうせ制服に着替えるとマジックショーによって萌の胸は消え去るのだ。あそこまで変化すると最早別人なので、万が一は無い。
『もう着替えましたよ! 御影先輩の体操服なんていつまでも着ていられませんし。あ、そうだ先輩。今から電話かけてもいいですか?』
…………何故?
こんな電話の使い方も中々無いだろう。同じ空間内に居るのに通話なんて。多くの場合無意味な行動だが、まさか無意味を無意味のままする程萌は頭が悪い訳じゃない。『いいけど』と返すと、直ぐに電話がかかってきた。
「もしもし」
「あ、先輩。済みません。お時間いただいて」
「お、おう。やけに堅苦しいな?」
そういうのって、俺の記憶が正しければ職業体験とか、アポイントメントを取る時に使うんだと思っていたが。
「実は……その。先輩にしてもらいたい事があるんです」
「あーお礼とは別にって事か。何だ? 可愛い後輩の頼みだ、それに今の俺はとても気分が良いから、法律に違反する様な事以外だったら何でもやるぞ?」
今も俺の身体には碧花の胸が触れた感触が……いや、何なら全身に彼女の感触が残っている。幸せだ。今なら死んでもいい。何でもやるという言葉に偽りはないつもりだ。後輩が先輩をパシる様は傍から見れば問題だが、そんな事をされても今の俺は欠片たりとも不快感を持たない。壮一に勝った事で、俺の今日一日のストレスは無くなったのだ。
「褒めてくれませんか?」
意外な申し出だった。てっきり俺は何かしらの仕事をいっぺんに引き受けてしまい、自分一人では捌ききれなくなってしまったから手伝ってほしいとかそういうお願いだと思っていたのだが、それがまさかの個人的なお願いだったとは。
「……また、急だな」
「い、嫌ならいいんですけど」
「いや、褒めるくらいだったら別にいいよ。ただ前もって言っておくと、俺、あんまりいい声とか出せないからな?」
何だって俺に褒めろと言ってきたのかは分からないが、しかし後輩の思いを汲んでやるのが先輩の務め。俺は一度深呼吸で調子を直し、それから―――
「萌、お前のお陰だ。凄いじゃないか」
とても優しい声で、そう言った。この間に、俺はどうして萌がこんな事を頼んできたのかについて考えたが、心当たりはない事もない。
恐らくだが、クオン部長は滅多に褒めないのだ。それが彼の教育方針なのか、はたまた元々人を褒めるのが苦手なのかは知らないが、そう考えると、萌が俺に頼んできた理由もわかる。彼女だって普通の女子高生だ。誰かに褒められて舞い上がりたい時くらいあるだろう。
「…………えへへ。有難うございます!」
「満足してくれたか?」
「はいっ。それじゃあ先輩、約束、破らないでくださいね。必ず奢って下さいよ?」
「へいへい。引き続き仕事を頑張れよ」
最後にそう言って、電話を切る。ポケットにしまおうとした時、丁度トイレの方角から碧花が歩いてきた。その顔は、見慣れた澄まし顔である。
「どこ行ってたんだ?」
「少し用を足しに……悪いね、遅くなって」
いつもの様に碧花が俺の隣に座る。今回は屋上ではないが、いつもの安心感が戻ってきた様な気がした。
「なあ碧花。一つ聞いて良いか?」
「ん?」
「お前は……恥ずかしくなかったのか? 公衆の面前で……その、俺なんかに抱き付いてさ。変な噂でもたったら……」
俺と碧花は別に付き合っている訳じゃない。その辺りを誤解されると、俺は満更でもないが、碧花が困るだろう。決着をつけてから、俺はどうしてもこれが気になっていた。碧花は俺の質問に驚いたような表情を浮かべて、それから―――俺の手を持ち上げる。
「他人の評価などどうでもいいさ。君は君で私は私。他人は他人。違うかい?」
「そ、そりゃそうだけど。だからってあんな―――」
それを見て言葉に詰まった。
碧花は俺の手を持ち上げた後、指の間に自分の指を通す形で掴んできたのだ。
所謂『恋人繫ぎ』という奴である。
「な、何を……!」
「自分で言うのも何だけど、私も乙女だ。やって恥ずかしくなる様な行動は最初からしないよ」
碧花が溜息を吐いてから、呆れた様な物言いで続ける。
「『首狩り族』だか何だか知らないけど。私にとって君は首藤狩也以外の何者でもないんだ。居て恥ずかしいとも思わないし、私と君の関係性にどんな噂がたとうが気にしないよ。周囲なんて不安定な存在じゃ、私と君の関係に傷なんてつけられない。そうだろう?」
「…………碧花」
「それに、噂は嬉しいものだよ」
「え?」
「噂がたてばたつほど、君は否定しようとする。その時の君の慌てようったら―――中々どうして楽しいものがあるからね」
悪戯っ子の様な微笑みを、俺は生涯忘れないだろう。底なし沼の様な、しかし美しい漆黒の双眸に、俺は心を奪われていた。
さて、萌の時には誤解されてしまったが、今回は結果から言っても誤解されまい。
「よっしゃあああああああああああああああ!」
あの後、『腹が立つ』とか何とか言って取り巻き達と一緒に壮一が帰り(本当はいけない事だが、壮一は失禁もしてしまったし、この場には居づらかったのかもしれない)、俺達は一時窮地に陥ったが、何とかして勝つ事が出来た。あの大玉での一位は相当大きかったようで、途中で二位、三位になったものの、無事に総合優勝一位を取る事が出来たのだ。クラスメイト達は互いに抱擁して喜び合い、他のクラスもそれなりに盛り上がりを見せていた。一部の陰キャは終わった事に喜んでいた。
…………俺も、内心ガッツボーズを決めている。
むしろ決めない方がおかしいだろう。これで俺は、かねてからの約束通り碧花を一回だけ服従させる権利を得た。地球上で俺だけが持つ特権だ。誰にも渡してはやらない。
さあどうする。
真っ先に思い浮かんだのはキスだが、経験がないので舌を噛みそうだ。
胸を揉む。公衆の面前では流石に無理。
待て待て。こういう直接的行為である必要はない。というかこういうのは……恋人にやるものだ。恋人だけが、恋人を好き放題出来るのだ。
じゃあ告白?
いやあ……やはり断られる未来しか見えない。恋人がやるべき行為が頭に挙がるのは、断られるのを分かっているから、せめてお触りだけでもという俺の惨めな思いである。やめやめ。
ではどうするか。幸い、今は夏だ。イベントがたくさんある。俺はクラスの集団から離れて碧花を探す。
居た。奥の木陰。体育祭中における俺達の定位置に移動していた。
「碧花!」
しかし体力がない俺は、彼女の手前で息切れを起こした。くそだせえ。
「用件は、分かってる。さあ、何でも言ってくれたまえ。私はどんなお願いも……受け付けるよ」
「はあ、はあ…………あ、碧花。お、俺と―――」
「君と―――?」
「俺と―――!」
「デートしよう!」
デートらしきデートなんて、今まで何度だってした事がある。けれどそれらは全て、碧花から行われたものだった。俺は心の何処かでそれに引っかかりを覚えていた。
ああ、自分の煩悩を素直にぶつけられない情けない男だと罵ればいい。俺だって碧花のお尻を撫でまわしたいし、胸を揉みたいし口にキスしたい。それ以上の行為だってしたい! けど駄目なのだ。俺が男として碧花に相応しい奴になるまで駄目なのだ。アイツが告白を受け入れてくれるような、本当の意味で素敵な男性にならなくては駄目なんだ。
だから俺は、変わる。今日を契機に、碧花を自分から誘っていく。仮に卒業までに努力して、告白して玉砕するのならそれでいい。これまでの努力は無駄じゃない。きっとそれから先にも役立つ筈だ。
そう、もう泣き虫じゃない。俺は超絶的不運を持つ高校生、首藤狩也。けれどその不運に立ち向かわなければ、幸運は俺のもとにやってこない。行動しなければ。俺の様なスペックの低い男が受動的になったっていい事は何もない。
「水鏡碧花! 俺とデートしよう! 絶対に、お前を満足させるから!」
俺の決意は、固かった。
もう泣き虫だったあの頃とは違う。今回のケースは二人がそれぞれの意味で決別しますね。
ヒントは精神⇔肉体