首狩りたる覚悟 前編
vs
雪の顔は深編笠によって保護されている。刃を使った訳でもないから怪我はしまい。俺は単に押し退けたいだけなのだ。
こちらの思惑通り、雪は斧に押されて背中から倒れ込んだ。
「行くぞ萌ッ!」
「ど、何処にッ?」
「その壁の―――向こうだ!」
既に袂を分かった雪を気にかける事はない。俺もノンストップで壁まで近づき、今度は助走で勢いをつけて振りかぶり、限界まで身体を捩って振り下ろす。俺史上最も強力な一撃は、幾度かの攻撃で崩れかけていた壁を完全に壊し、その先の道が姿を現した。
「行くぞ!」
「は、はい!」
壁の先に控えていた道―――廊下は遥か先まで続いている。何処に繋がっているかは分からないくらい長い。道の幅的に人一人の通行がやっとなので、立ち止まれば雪に忽ち追いつかれるだろう。背後の方で大鉈の持ち上がる音が聞こえた。一刻の猶予もない。だがあれだけ大きいと、この道の狭さでは縦にしか振り下ろせないので、そこだけは幸い―――ああ、失敗した!
雪たちは俺以外は殺す気満々だが、俺だけは両足を切るつもりだ。しかしこの道の狭さでは足を切るなんて出来っこないから、俺が萌の後ろに居れば、殺される危険性処か、攻撃される可能性すら皆無だった。
「先輩、遅いですッ!」
「すまんッ」
しかも萌の方が圧倒的に足が速い。俺が斧を持っている事を抜いても、やはり彼女の方が速い。効率の面から言っても俺が後ろに居た方が良かった。どうして俺は彼女の前を走ってしまったのだろう。背後から聞こえる足音は二つ。軽快な足音が萌で、鋼を引き摺る音と共に聞こえる足音が雪だ。耳が煩い。木材と金属だからまだ良いが、金属と金属だったら不快感で耳が死んでいたかもしれない。
走っている内にぼんやりとした光が見えてきた。消えかけの提灯みたいな、本当に僅かな光。真っ暗闇の中で見れば明るいが、明るい所から見れば真っ暗闇と相違ない光。俺達が現在走っている廊下に対して光がかなり広がっているので、部屋……なのだろうか。
距離の概念はある様で、段々と光が近づいてくる。距離が縮まると、部屋の奥にやたらと豪華な扉が取り付けられている事に気が付いた。全体的に趣味の悪い人形屋敷からは想像もつかないお洒落さだ。何処かの風景を絵に落とし込んだのだろう。
「先輩! 後ろとの距離が……!」
これでもし萌が死んでしまったら、俺のせいだ。俺の足が遅いばかりにそんな悲劇が起きた。そうなればクオン部長にも顔向け出来なくなる。
ぼんやりと光の灯った部屋に入った瞬間、俺は身を翻し、斧を構えた。
「萌ッ! 出たかッ?」
「出ました!」
「よしッ!」
ならばこの一方通行の道には雪しか居ない。返事が聞こえたと同時に、俺は再び斧を突き出して、雪の頭を突いた―――直前。
凄まじい重量が上から掛かり、その重さは斧もろとも床へ叩きつけられた。
あまりの重さについ手を離してしまったが、その行動は悪手だった。これで俺達は、大鉈に対抗する術を完全に失ったのだから。
「あッ―――」
気づいた時にはもう遅い。俺は距離を取ってしまったし、木材の引き千切れる音と共に床が完全に破壊された。楼から貰った斧は、重さからしても床下に落ちた事だろう。急いで扉まで駆け寄ろうとしたが、萌が引き戸に張り付いているのを見た瞬間、俺の足は止まった。
「んッ―――! んんんん…………んッ! んッ!」
引き戸が開かないなんて事があるだろうか。何かつっかえ棒の様なものがあったとしても、壊せば……いや、萌は何度もタックルしている。それでも引き戸は壊れていない。なら斧で壊せば……馬鹿か俺は。その斧は床下に沈んでしまったのに。
ドン、という音が暗闇に響く。重量の乗った音に千切れた木材が軋みを上げた。明かりが小さすぎて分からないが、恐らく壊れた床下を飛び越えて、雪が移動してきたのだろう。
「萌。扉から離れろ。出来るだけ明るい所に入るな」
「え。あ、はい」
視界を封じられているという条件は雪も同じだ。この真っ暗闇の中では一番明るい扉にさえ行かなければ、目で見つかる道理は無い。俺達を探り当てるには音を聴く必要がある。先程萌に向けた指示で俺の位置は把握されてしまったが、萌はちゃんと足音を殺しながら暗闇に入ってくれた。俺はともかく、彼女を殺すには手間がかかるだろう。
しかしここからは一切の会話が出来ない。
会話が出来ないという事は連携が取れない。連携が取れないという事は、仮に俺だけがどうにか脱出できたとしても、萌を置いて行ってしまう危険性があるということだ。あの大鉈は木製の床を一撃で破壊するくらいの威力はある。あんなものを喰らって生きてられる奴は何をやっても死にはすまい。
ここに来るまでの道は完全に断たれ。
この部屋と何処かを繫ぐ扉は、どうやっても開かない。壊す手段もついさっき失った。
視覚を封じられ、雪が居る事で音を出すのさえ封じられている。
俺達の置かれている状況を纏めるとそんな所だが、ハッキリ言って絶望的だ。何も突破法が浮かばない。音を出すなとは言葉にしてみれば簡単かもしれないが、人に限らず生物は生きている限り音を出す。例えば呼吸、例えば心拍。
雪の五感が人より鋭敏かどうかは知らないが、音を極力出さない様に努めれば、必然、場は静寂に包まれる。そんな状況なら、たとえ五感が平凡な人でも、音は拾えてしまうだろう。少なくとも俺は聞こえる。雪の呼吸音が。
「…………すう」
露骨に息を吸うと、雪が立っていると思わしき場所から音が動いた。こちらに向けて、である。音はゆっくり、ゆっくりと近づいてくる。一歩一歩の足音は重く、大きい。それが接近してくると分かる度に心拍が上がって、その内聞こえてしまうのではないかとも錯覚した。
大丈夫、雪は俺の事を切らない。
切るべきは両足だが、大まかな位置しか把握できていない雪には、鉈は振るえない筈だ。空ぶれば自分の位置を教える事になる。というより空振ってくれれば、千載一遇のチャンスだ。
萌がその事に気付いてくれればいいが―――話しかけるのはリスクが高すぎる。完全に足音を殺している彼女を見つけるというのも、一網打尽にされてしまいそうであまりやりたくない。
ここに来て俺は、居もしない神に祈る事にした。
頼む。気付いてくれ。
暗闇の中で一撃死の恐怖に怯えるのは当たり前だよなあ?