何を殺しても君を守る
二度と思い出したくないあの動画。気持ち悪い、気色悪い、吐き気がする、虫唾が走る。罵詈雑言を連ねても尚、むかむかは収まらない。菜雲をレイプしたのは複数人だが、この男はその内の一人だった。この男一人欠けた所で菜雲の死は止められなかったかもしれないが、それでもこの男が彼女の自殺に関わったのは事実。
正直な気持ちを言えば、ぶっ殺したかった。
だが、そんなクソ野郎とて、自業自得と言われる場面と、そうでない場面がある。交通事故に遭ったり、通り魔に刺されたりというのは、悪いが自業自得だ。自分がやった行いが別の形で返ってきただけの事。同情の余地は一ミリも存在しない。
だがこれはやりすぎだ。あんまりだ。人としての尊厳も糞も無い。女性の尊厳を容易く踏み躙る様なクソ野郎とはいえ、こんな目に遭うのは違うだろう。
「…………嫌だ」
只の死体で、ここまで取り乱すものか。今回は次元が違う。あまりにも非現実すぎる。いつも死体を見ているベテラン刑事だとしても、こんな死体に出会えば面食らってしまうだろう。そんな異常死体を一般人の俺が見れば、精神崩壊とまでは行かずとも、その寸前まで追いつめられるのは、当然だ。
「………………嫌だ。こんな風になりたく、ない。なりたく、ない。なったら、痛い。痛い。イヤだ。いや、だ。イ……ヤ……………だ」
徐々に後ずさる。後ずされば心臓の負担も軽くなり、心なしか感覚も息を吹き返している気がした。だから下がる。どんどん下がる。碧花が何かこちらに向けて言っている様に見えたが何も聞こえない聞きたくないこれ以上あの死体の傍に居るなんて俺の理性が許さない―――!
正気を無くしかけたその瞬間俺の視界に映ったのは、碧花がこちらの様子を心配し、駆け寄ろうと立ち上がる場面だった。
ソレデホントウニイイノカイ?
良くなんか、ない。
―――そうだ。俺は何を怯えているんだ。
体の震えが止まった。全身を埋め尽くしていた恐怖の感情は消え、死んでいた感覚は息を吹き返し、抜けていた筈の腰はいつの間にか元に戻り、俺はすっかり冷静になっていた。
心臓も、飛び出してこようとしていたのかと邪推しても仕方ないくらい痛かったのに、今は通常通りの機能を果たしている。
俺は馬鹿だ。愚かしい。好きな人の前で情けない格好を見せないんじゃなかったのか。何を怯えてる。何を怖がっている?
それは碧花に嫌われるよりも恐ろしい事か?
それは碧花が居なくなってしまう事よりも恐ろしい事か?
さっきまでの様子から一転。あっさりと立ち上がり、後ずさりした分をまた歩く。表情はおろか、気持ちさえ瞬時に切り替わった俺を見て、碧花は駆け寄るのをやめ、一層困惑を深めた。
「……狩也君?」
その顔はまだ心配そうで、しかしとても弱弱しい。まだ息苦しい様だ。ここまで弱弱しい彼女は初めて見た。だからこそ、俺が守らなきゃならない。だというのに俺は……たかだか蝋人形一体に何をビビってる。
改めて、先ほどの理解不能とされた物体を見据える。これが理解不能とは、俺は何を見ていたんだろうか。蝋燭歩き本体を見たならまだしも、こんなの只の置物じゃないか。生物ですらない。更に詳しく観察すると、どうやらこの死体を侵食している蝋燭、今も腐敗した肉を侵食している。最終的には全て蝋になるのかもしれない。死体と蝋人形の丁度中間の時にこれを発見した俺達は、運が悪かったのだろう。
「碧花、大丈夫か?」
彼女に視線を合わせてから、口元まで耳を近づける。声も碌に張れない様では、これぐらいしないとまともに会話が成立しない。
「私は……まだ息苦しいけど。窒息はしなさそうだ。恐らく、ここが下限かな。君は……どうなの」
「俺は大丈夫だ。今は何ともない。ごめんな、少し……ダサイ所見せた」
「―――無理も無いよ。こんな異常死体、私も初めて見たから」
「異常死体……いや、死体は死体だよ。それ以上でもそれ以下でもない」
「…………え?」
碧花の背中に手を回し、小声で尋ねる。
「立てるか?」
「あ……うん。一応ね」
余計な事を聞いた。この死体を見て腰を抜かしたのは俺だけだ。碧花は屈んだ体勢をずっと維持しているから、これで立ち上がれない方がおかしいだろう。早々に彼女を立ち上がらせると、俺はランタンを碧花に渡した。
「じゃ、先導頼む。確か鍵を使う場所に行くんだよな」
「……君って多重人格だった?」
「あ?」
「様子、おかしいよ」
多くは言わないが、彼女は俺が多重人格レベルでの変貌をした事に驚きを隠せていなかった。今の状況からすれば『憑く』という事もあり得なくはないので、きっとそれを心配しているのだろう。ランタンを持ったまま、俺に詰め寄ってくる。
碧花は本気で心配している。茶化すのは無粋だろう。
「…………お前見てたらさ、ふと思ったんだよ。俺の『首狩り』で皆が死ぬのって、俺が弱いからなんだって。俺が怖がりで、ネガティブだから。『たられば』ばっかり考えて。それでもどうせ、自分はダメなんだって考えるからだって。それが性分だからしょうがないって今までは思ってたけど―――さっきさ。お前、俺に駆け寄ろうとしてくれただろ?」
「……うん」
「あの瞬間さ。直感したんだよ。死体見て一々怖がってるようじゃ、お前を喪っちゃうって。お前は強いかもしれないけど、女の子だ。俺は弱いかもしれないけど、男の子だ。俺が弱かったから萌と由利が攫われた。でもお前にだけは、どうしても居なくなって欲しくない。そう思ったらさ、死体なんて………………全然、怖くなくなったんだ」
アニメなどで、俺の様な変貌は俗に『覚醒』と呼ばれる。性格が一変したり、突然勇気が湧いてきたりと、『覚醒』は作品によってさまざまだ。そんなの現実じゃあり得ないなんて思っていたが―――俺もつくづく欲望に忠実な男だ。女性一人守りたいという気持ちだけで、冷静になれるなんて。オスの本能様様である。
この『覚醒』は、多重人格でも無ければ何かが憑りついた訳でもない。強烈な自己暗示―――思い込みだと思ってくれればいい。異能力も何もない俺に残されたものは童貞の妄想力しかない。『碧花を守る為には何事にも冷静沈着に対応しなければならない』という思い込みが、俺を変えさせた。
だから実際は何も変わってない。ヘタレな首藤狩也の根底は何も変化していない。変わったのは俺が俺自身に抱くイメージ、そして強さ。
驚く事もあるだろう。躊躇してしまう事もあるだろう。
けれど決して恐怖しない。
人は簡単には変われないなどと言うが、生憎と俺は単細胞なもので。碧花に危険が及ぶくらいなら、幾らでも自分を変えてやる。
碧花を喪うくらいなら、自分を喪った方が百倍マシだ。こんなクソネガティブな人格、喪ったって一文の損にもなりやしない。
「二度目だけど、先導頼む。こんな所に死体を置いていった理由は分からないが、蝋燭歩きの痕跡はもうないしな」
「追うの……やめるのかい?」
「痕跡はこれっきりだし、追いようがない。今はそれよりも鍵だ。オミカドサマの情報でも何でもいいから、早い所攫われた二人を助けないとな」
そう。俺自身がこうして変わる事は、後々二人を助ける事にも繋がってくる。立ち止まってなんか居られない。恐怖してなんか居られない。腰なんて抜かしてる場合じゃない。死体なんか気にしてる場合じゃない!
あんな死体よりも、二人の安否だ。二人の死体なんて絶対見たくない。見たくない為にも、全力で助ける。
目先の恐怖にばかり囚われていたせいで気付けなかったが、最初からそれに気づいていれば、もっと勇敢で居られただろう。
何故か碧花は俺の双眸を三〇秒程度じ~っと見つめて、それから一言。
「―――だったら、頼りにしてるよ、狩也君」
好きな人も守れないんじゃ、この世に生きてる価値は無い。俺の人生は碧花無くして語れはしない。そんな彼女を喪ったともなれば。
俺の人生なんて、何の意味もない。
お分かりかどうかはさておき、中間の問いかけてきた奴は狩也君でも碧花でもありません。内なる声とかでもないです。
考察に役立ててください。つってもまだ何も終わってないですけど。
Q
後なんか狩也が病んできてる気がするんだけど気のせいですか
A
そりゃ死体とか自殺とか小学校の頃から色々見てたら微々たる病みが蓄積されて、その内顕現するのは仕方ないよね。