蝋人形
頭に……蝋燭?
それは俺と萌が追い求めていた、蝋燭歩きではないだろうか。この山での目撃情報は無い筈だが……目撃情報は所詮目撃情報という訳か。よく考えてみれば、ここは立ち入り禁止地帯だし、出現しても目撃のしようがないから、情報が無いのは当然か。
「……それ、蝋燭歩きじゃないか?」
「知ってるの?」
「知ってるというか、探そうとしていたというか」
「どういう奴なの?」
「頭に蝋燭被ってて、蝋燭が先に付いた縄持ってる怪異らしい。詳細は知らないけど、頭に蝋燭被ってるならそうだろうな」
どうやら蝋燭歩きの事は知らないみたいだし、嘘を吐く道理もない。たまたま俺の背後に現れたのなら、本格的に俺の運は悪い。見つからなかった分、幸運と言えるかもしれないが。
「……そうか」
「何か引っかかってるって顔だな」
「君の後ろに現れたのが蝋燭歩きだと仮定して、特徴と一致しないものがある。蝋燭が先に付いた縄って言ったかな」
「おう」
「私が見たのは人間だった」
言葉が出なかった。実際に見たのは碧花なので、俺が息を呑むのはおかしいかもしれないが、想像力の問題だ。
「……ひきこさん、みたいな感じか?」
「うん。そうだね。縄越しに持っているという違いに目を瞑れば殆どひきこさんだ。女性がどうかは知らないけれど」
ひきこさんは有名な都市伝説の一つで、自分の姿を見た子供を死ぬまで引きずり回すという怪異の事だ。俺の知っている情報はそれくらいだが、要は素手で引きずり回しているか、縄使って引きずり回しているかの違い。
ならば当然引きずる音が聞こえると思ったのだが、耳を澄ましても全く聞こえやしない。
「居なくなったのか?」
「多分ね。様子を見に行ってみようか」
いつぞやの一人かくれんぼの雰囲気が戻ってきた。あの時の相手はぬいぐるみだったが、今回の相手は蝋燭歩きか。この胸の高鳴りは、命のリスクを承知した故のものだろう。鐘楼の横から碧花が目撃したと思われる場所を覗き込むも、何も見えない。
だがあの反応が気のせいだとは思わない。盾にしていた鐘楼から身を出すと、俺は茂みの中に入り、きょろきょろと辺りを見回す。
「…………何も無いぞ」
そんな馬鹿な、と碧花は言って、俺と同じ場所に立って周囲を見回す。
「……あるじゃないか」
「は、どこに?」
彼女が指さしていたのは、足元。茂みだ。ランタンを近づけてみると、足元の草が何か重い物を引き摺った様に一方向に潰れていた。
「蝋燭と縄程度でこうはならないね。人間だったら……成人男性くらいの大きさを引き摺ったら、可能かな」
「……変な事、言うなよ。どうせあれだろ。蝋燭歩きだから蝋人形引っ張ってんだろ」
「どちらにしても、この引きずった痕を追えば私が何を見たのか分かると思うんだけど。どう? 追ってみるかい?」
痕跡が残っている時点で、碧花が見た何かは実在している。追えば追うだけリスクが発生するのは目に見えている。飽くまで安全を優先するなら、追う道理は無い。
「……行こうッ」
だが俺は正体不明が嫌いだ。ひとりかくれんぼの時も、あの怪物の事が恐ろしくて仕方なかった。今回も、『それ』を見ているのは碧花一人だけなので、俺にとっては全くの正体不明。それでいて確かに『在る』事は、この痕跡が証明している。
リスクがあったとしても、何もかも分からない奴を放置するのは我慢ならない。何と戦っているかも分からないまま死ぬなんて、或は怯えなきゃならないなんて嫌だ。少なくとも存在の把握くらいはしておきたい。
僅か一言から後ろ向きな決意を察して、碧花は苦笑しつつ「君らしいよ」と目を細めた。
「……それじゃ行こうか」
ランタンの明かりでは痕跡の先を見据えるのに限界がある。この痕跡を遺した本人に見つかっては本末転倒なので、慎重な足取りで俺達は歩を進めた。
―――なんだ?
歩き出して十秒も経っていないから当然だが、何の姿も確認出来ない(この時点で確認出来たら、それはついさっきの時点から見つけられたに違いない)。だが何かに近づいている事を示す様に、心臓が痛くなっていく。吊り橋効果とか、悠長な話をしている場合ではない。
「…………ッく」
その変化が起きているのは俺だけらしい。碧花に特別変わった様子は無い。
一歩。
「…………」
二歩。
身を屈ませながら歩いているから、というのは理由にならないだろう。何かに近づいていく毎に、全身から体温が奪われていく。突然冷凍庫に放り込まれたみたいに、急速に。吐いた息は全く白くないが、寒い。突然高熱になったかの様だ。
それから一歩一歩と進むたびに、症状は明確に、深刻になっていく。終いには、身体が末端から溶けていっている錯覚さえ覚えた。不思議な話だ。溶けるという単語は熱い時に使われるというのに、今の俺は寒い。
溶ける、という言葉に違わず、感覚はとうの昔に死んでいた。
「……碧花」
「―――寒い?」
「もしかして、お前も寒いのか?」
「ああ。低体温症とは違う気がする。というか周囲の条件的にあり得ない。もしかしてこれが怪異の影響……という奴かな」
「今、どうなってる?」
愚問、かもしれなかった。直前の声もそうだったが、普段と比べるとかなり弱弱しかったから。
「……息苦しい。これ以上追ったら窒息してしまいそうだよ―――そっちは?」
「心臓が痛いし、寒い。今はまだ耐えられるけどな。これ以上痛みが肥大化しない事を願うばかりだ」
近づくだけでこんな影響があるとは。離れたいのは山々だが、俺だけ離れると、碧花を失ってしまう可能性があるし、徘徊しているという事は、ここで逃げてもいつかは遭遇してしまう可能性がある。
ならばここは、寿命を縮めてでもその正体と特性を把握しておくべきだ。俺達の身体に訪れた不調が怪異的なものだと最初から決めつけているのはどうかと思うが、碧花も言った様に、そうとしか考えられないくらい、環境と不調が合っていないのだ。
不調の深刻化は止まらない。一気に悪くはならないが、じわりじわりときつくなっていく。持病の心臓病が悪化したと言っても過言ではないかもしれない。実際に患った事は無いので、もしかすると誇張表現の恐れがあるが。
しかし俺は、碧花が傍に居る関係で弱音を吐く事は決してしなかった。碧花も弱音を一切吐いていない。男の俺が音を上げるなんて情けなさ過ぎるだろう。下らない意地と言えばそれまでだが、その下らない意地を張り続けるのが男という生き物だ。
「……ストップ!」
何か言った事は分かったが、如何せん声量自体が小さすぎた。彼女自身も理解している様で、俺がその指示を理解出来たのは、手で制止を掛けたからである。
「…………?」
信号に従う車よろしく、俺は彼女の手の直前で停止。そのまま上体だけを伸ばして彼女が制止を掛けた原因を確認する―――
その気味の悪い物体を、果たして何と形容したものか。俺は恐怖を紛らわせる為に蝋人形を引き摺っていたんだと言ったが、率直に言って、それは蝋人形だった……ただし、蝋で作られた人形ではない。
蝋に浸食された人形……即ち、死体だった。
内臓は剥き出しで、腐っている部分と蝋みたいに白く溶けた全身の肉が外気に触れているせいで、何とも言えない異臭が俺達の鼻に流れ込んできている。むせ返る臭いに動きを止めた俺達を、くりぬかれた両目が底なしの瞳を向けて嘲笑っていた。
「…………!」
蝋は温めると柔らかくなる事は知っているだろう。死体の足の方を見ると、丁度握り込んだ形に潰れていた。碧花の見た奴は、きっとこれを引き摺っていたのだ。
「あ、あ―――!」
悪いが、こんな死体を常日頃見る様な生活はした覚えが無い。視界に映り込んだその瞬間から、目の前の物体は俺の理解を超えていた。理解したくなかった。こんな死体を理解してしまったら、まともな感性が崩壊してしまう。
「あ、あああああああああああ…………」
理解不能なものを理解してしまうと、人間は大声すら出せなくなる様だ。腰も抜けてしまう様だ。俺はその場にすとんと座り、そのままゆっくりと後退していった。
「…………い、いやだ。こ、こ……こんなの―――あり得ない。ゆめ、ユメ、そう夢だ。だよな碧花」
彼女は無言で首を振る。この初恋が現実である限り、彼女の一挙手一投足もまた、現実である。
「な、んで…………なんダよ、これ。なあ。なあ。俺達もこうなるのか……オレ達も、こんな、風に…………」
俺がここまで取り乱している理由は、死体の異常性以外にもある。目の前の死体は見る限り男で、その男の事を、俺は知っていた。名前までは知らないが、その顔を誰よりも俺は知っている。誰よりも見ている。その顔を。人殺しを。
菜雲を自殺に追いやった、その男を。
こんな所で野海が死ぬ訳ないだろぅ!?
彼には相応しい役目があります。いつかの感想で記者にしては言動や態度が非現実すぎるとか言われてた気がしますが、まあ落ち着けと。
早計だと。