支えてくれる者
ワルフラーンやろうと思ったけど無理そう。人物整理だから案外出せるかもしれないが。
言語というものは非常に繊細で、緻密で、不明瞭である。似通った意味でも厳密には意味が違う場合があるし、とにかく難解である。知識人でもない限り完璧に使いこなすのは難しいだろう。俺は知識人ではないので、残念ながら母国語であろうとも完璧に使いこなす事は出来ない。
しかし、そんな俺でも『理解』と『共感』が違うのは分かる。
理解とは、辞書に沿った言い方をすれば人の気持ちや立場が良く分かる事だが、分かるとはどういう事なのか。俺が思うに理解とは、上からの物言いなのではないかと思う。
揚げ足を取られそうな言い方だが、これが悪いと言っている訳ではない。「理解者が欲しい」と言う人間も度々居るくらいだから、それ自体は悪い事じゃない。むしろ悪いのは理解力が欠如している方であり、そういう人間は得てして孤独になる。だから理解が悪いという事じゃない。むしろ一人でも孤独な人間が居なくなるのなら、どんどん理解をしていってもらった方がいい。
違う。俺が言いたいのはそういう事じゃない。
『理解』と『共感』は似て非なるモノ。『理解』は『共感』にはなれないし、逆も然り。言葉の上だけでこの違いを解説するのは非常に難しい(少なくとも俺には難しい)が、この二つは確かに違うのだ。
距離的な話をすれば伝わるかもしれない。孤独な人間を夜雨に打たれる人間と想定すると、理解とは傘を持ってその人間と相対する事であり、共感とは傘を捨ててその人に寄り添う事だ。共にその人を気にかけている点は変わらないが、距離感が違う。
つい先程、俺は自分の方が酷い目に遭っているから理解が出来ないと言った。同じ想定をしたとしてもそれは変わらない。例えば俺が虐待に監禁、部位切断まで喰らっていたとして、そんな人間がどうして雨に打たれている人間に対して『辛いんだろう』という理解が出来る。むしろ全く逆の方に解釈する可能性の方が高いだろう。俺が『理解』出来ないと言ったのはそういう事だ。
もう分かっただろう。碧花が俺にしてきて、今の俺しか出来ない事。それは『共感』である。
理解はその人の気持ちを知った上で気持ちを何処かへと導く必要があるが、共感は寄り添うだけ。方向性が全く違う。振り返ってみれば、碧花は一度も俺の事を否定しなかった。下らない雑談をしていたり冗談言ってる時はともかく、真に俺の心が弱っている時に、彼女は一度も、たとえ俺が悪かったとしても、俺の事を否定しようとはしなかった。『君にも責任がある』だなんて、一言も言わなかった。
彼女は只、俺に寄り添ってくれたのだ。俺が合っていようと間違っていようと、俺の傍で抱き締めてくれたのだ。
兄として落涙する妹を慰める為には、それしかない。妹が悲しんでいるからどうするか、という方向で駄目なら、俺も一緒に悲しめばいい。隣に寄り添ってやればいい。俺がするべき行為は、それ以外に考えられない。
もう一度リビングに入る。深呼吸をする。天奈はまだ泣いていた。まだというと、かなりの時間が経った印象だが、実際はそれ程ではない。一人で勝手に泣き止むには早すぎる。
「天奈」
返事が返って来ずとも構わない。俺は泣き続ける彼女の横に座ると、その背中をゆっくりと撫でた。
「お前は悪くないよ」
因みにこれは本当に悪くない。悪いのは香撫もしくは那須川或いは両方だ。彼らはあまりにも態度が悪かった。俺に追い立てられたのは当然とも言える態度だったので、嘘でも何でもない。
「友達が少なくなったのは……えー悲しいよな。悲しい。けれども……あー」
もうやめてしまってもいいだろうか。結構酷い。人に共感した事が無いと言っては何だが、共感するよりされた回数の方が多いせいで、やり方が分からない。いや、直ぐ諦めるのは俺の悪い癖だ。ここで諦めたら妹は泣き損である。兄として、それだけは許容してはならない。
「……俺にはさ、お前がどれだけ悲しいか良く分かるよ。明日も明後日も会う筈の人間が突然離れるんだ。こっちにとっては訳が分からない。お前みたいに俺だって泣いた……友達が居なくなるのってさ、自分の身体が急に無くなったみたいなものなんだよな」
「…………………」
天奈は何も返してこない。この距離で聞こえないなんて事は幾ら何でもあり得ないので、単に泣いているせいで言葉が出ないのだろう。変わらず俺は言葉を掛け続ける。下手糞だったとしても、大事なのは俺が本当にそう思っているかどうかだ。
「でも、俺はお前の兄貴だ。世界でたった一人、俺がお前の兄貴だ。俺は『首狩り族』なんて呼ばれてるけど、俺の首は絶対に落ちない。俺だけは―――お前の傍を離れないから」
「――――――ッ」
「だから泣くなよ。お前が泣く道理なんて……何処にも無いんだからさ」
基本的に俺は駄目な兄貴だ。その上変態で、不運な兄貴だ。でもそれでも、俺には妹という守るべき存在が居る。その妹が泣いているのなら、何が何でも慰めるのが兄貴の務めだと思う。
彼女の笑顔は、俺にとって日常の一部なのだから。
「………お兄ちゃんッ」
「何だ」
「お兄ちゃんッ」
「ああ」
涙に掠れた声に応じる様に、俺は机の下で彼女の手を握った。
「俺は、ここに居るぞ」
その時こそ、初めて俺が頼れる存在となった瞬間だった。俺はようやく一人の人間を、悲しみから掬い上げる事が出来た…………のか?
何にせよ天奈は、ようやく俺の方にその顔を見せてくれた。涙と悲しみでぐちゃぐちゃになった、とても人には見せられない様な酷い顔を、俺の胸に埋めた。
「お兄ちゃあん…………わたし……」
「…………何も言うな。お前が泣く意味なんてないんだから」
もしかすると、碧花もこんな気持ちだったのだろうか。違うとするなら、俺を抱きしめてくれた時に彼女は何を考えているのだろうか。俺視点では碧花の胸の温かさや柔らかさ、大きさくらいしか感じる物はないが、碧花の視点に立つとなると―――一体、何が見えてくる。何を感じる。
―――碧花。
パーティを仕切り直した後に抱いた、彼女への不信感。今の今までずっと俺の傍に居てくれた彼女にそんな思いを抱く事自体、俺には不愉快そのものだった。早い所払拭したいのに、面倒くさい性格のお蔭でそれが出来ない。悲しかった。俺と打算無しに付き合ってくれる彼女を信じられないのが、本当に悲しかった。
彼女の事がもっと知りたい。
お互いの家に遊びに行く仲の癖に、俺は彼女の何もかもを知らな過ぎる。親にだって会った事がない。授業参観の時でさえ見かけなかった。純然たる事実として、俺は彼女の事が大好きだが、好意に対して知識が足らな過ぎる。
天奈の背中を擦りながら、俺はこの場には居ない碧花の事を考える。彼女は俺を慰めている時、いつも何を考えていたのだろうか。
天奈は泣き疲れた様だ。泣き声が止んだと思ったら、いつの間にか眠っていた。何を言っているのかは普通に分かるだろう。
こうして冷静になって見ると、この家は俺と天奈の二人暮らしをするには広すぎる気がした。どちらも起きているならテレビなどでそれなりに賑やかになるのだが、どちらかが寝ると途端に静寂がこの家を支配してしまう。あまりにも静かだから、まるで煩くない天奈の寝息も、明瞭に聞き取れてしまう。
テレビを付けて彼女の眠りを妨げるのも申し訳ない。ここで見ないと恐らく二度と見ようとは思わないだろうから、俺は部長から渡された本を開く事にした。何の本かは知らないが、部長が渡したモノなので、どうせヤバい代物に違いない。読み終わったら早々に神社にでも出してこよう。
やけに厚みを感じたので、適当に開いてみる。そこには『狩也君へ』と書かれた黒い封筒が挟まっていた。
黒い封筒!?
色からして不吉だが、何より不吉なのは封が藁人形みたいな形をしている事だ。もうそんな予感しかない。これで吉報だったら俺は逆にショック死する。微かに手を震わせながら、俺は封を切って封筒の中身を見た。
そこには只、一言。こう書かれていた。
『水鏡碧花を信じるな』
いよいよ本格的な敵対とも云おうか。




