果たして俺の運勢や如何に
文化祭が中止されてから、二週間経った。唐突に死んでしまった菜雲のショックから、俺はまだ立ち直れていなかった。彼女の事を嫌っていたからか、どうしても悲しめない自分が憎かったし、それでいながら彼女が死んでしまった事を忘れられない自分が情けなかった。どうせ悲しめないのならとっくに忘れ去ってもいいだろう。なのに中途半端に覚えてしまうから、余計に立ち直れない。
しかし、碧花の為にも俺は表面上、元気になる事にした。情けない顔を見せられる人物は彼女しか居ないが、そんな彼女にも、出来れば男らしい姿を見せておきたい。そうすれば、いつかはきっと彼女も『狩也君、かっこい~!』と言ってくれるだろう。
……とは言ってみたが、碧花にカッコイイと言わせる事が出来たら、恐らく大抵の女子に俺は好かれているだろう。彼女を堕とす事は、他のどの女子よりも容易ではないと個人的には思っている。一番距離が近い女子ではあるが、今まで一度も恋愛らしい恋愛をしてこなかった俺にとっては、強敵に変わりはないのである。
「…………ん?」
やけに寝覚めが良い。もっとこう、俺の寝起きというものは極悪だった筈なのだが。ベッドから半身を起こして、部屋全体を見渡す。
俺の部屋じゃない。
俺の部屋がこんな柔らかい雰囲気である筈がない。というかこの部屋……見覚えがあると思ったら、碧花の部屋ではないか。確かに泊めてもらったが、それでもあの時から既に二週間が経過している。同居している訳でもないのに、どうして俺がこんな所で寝ている。
「……ん……んん。狩、也君?」
え。
その声は近くというか、俺の真横で発せられた。恐る恐るそちらの方向を振り向くと、案の定、碧花が横たわっていた。
全裸で。
俺の思考が停止する。そして彼女の姿勢が横になっている事で寄せられたとてつもない量感の胸に、目が釘付けになった。小さな胸を寄せる事で大きく見せるという手法があるのは知っているが、碧花のそれは偽りの大きさではない。正真正銘、本物の巨乳だ。
何故かそれが、俺の隣にある。精密に作られた人形の如く美しい、彼女の身体と共に。
「あ、碧花さん?」
思わず敬語になる。俺は何をしたのだろうか。
そこで気が付いたが、俺も全裸ではないか。
あれ? これは…………まさかやってしまったのだろうか。俺は遂に一線を越えてしまったのだろうか。おかしい、そんな記憶がない。自制心の強い俺が一線を越えたのだとしたら、それは俺の脳内に強烈な記憶として残っている筈なのだが、一切合切覚えていない。
自分のしてしまった事が唐突に恐ろしくなって、俺の身体が震え始める。それを寒さと感じたのか、彼女はこちらにゆっくりと近づいて、そして俺の身体を押し倒す様に密着した。
「うおッ!」
女性の胸の柔らかさたるや、我々童貞の想像を遥かに超えるものがあった。いや、多分俺は童貞ではなくなったのだろうが…………そんな事はどうでもいい。先程から胸の事ばかり語っているが、碧花の場合はそれ以外も明らかに普通とは一線を画している。彼女の足が、布団の中で俺に絡みついた。逃げようにも、逃げられない。
「どうしたの……狩也君。そんな、驚いたみたいに」
「い、い、いいいい、いやだって。お、あれ? 俺、お前と…………」
「……ふふ、びっくりしちゃったよ。君、急に襲ってくるんだもの。昨日は随分と……はりきっちゃって。安全日だなんて、私は一言も言ってないのに」
「ご、ごめん! その、えっと―――!」
素直に謝ろうとも思ったが、今の彼女の発言を聞いた瞬間、俺は正直に『昨夜の事は何も覚えていない」とは言えなくなってしまった。だって、そういう事だろう。わざわざ彼女の方から『安全日だなんて言っていない』と言ったのだから、つまりそういう事なのだろう?
にも拘らず、今の俺に記憶はない。だが記憶も無しに彼女を襲ったなんて、そんな事実を伝えて彼女を傷つけたくもない。最初から理解が追いつかなくなったが、いよいよ俺の思考は次元を超越しかけた。
勝手に混乱して勝手に追い詰められる俺を落ち着かせたのは、何でもない彼女の一言だった。
「いいんだよ?」
「―――え?」
碧花は妖艶な微笑みを浮かべて、俺の唇を塞いだ。俺の知る彼女とはうって変わって積極的過ぎる行為だが、そんな事よりも彼女の口が柔らかくて、滑らかで気持ちいい。もっと吸い付きたい、もっと彼女を味わいたい。
自制心の無い俺は、碧花の背中に手を回すと、彼女の呼吸に合わせて舌を捻じ込んだ。慣れない。昨夜もこんな事をしたのだろうか。やっぱり記憶にないが。
「……ッん。ねえ狩也君。まだ朝も早いし、昨日の続き、して欲しいな…………」
「き、昨日の続き…………?」
「しらばっくれないでよ……私が気絶するまで襲っておいて、それは無いじゃないか。ほら―――こうやって」
「昨日みたいに―――――――――――」
「はあああああッ!」
ベッドから飛び起きると、いつもの光景が映りこんだ。俺は全裸では無いし、隣に碧花も居ない。布団に残っているのも、俺一人分の温もりしかない。
「…………夢か」
それは多くの場合安堵を示す言葉だが、俺の場合どちらかと言えば落胆を示していた。目覚めなければ良かったのに、とは思っていない。現実だったら良かったのに、とは思っていたが。
しかし、これで俺は責任を取るつもりのない最低男にならずには済んだ。まずあり得ないが、せめて襲うのなら、責任を取る覚悟を持った状態で臨みたいものだ。唯一の友達という関係を崩して恋人に……夢の状況ならば、夫婦になろうというのだ。それくらいの覚悟も無くてそんな事はしたくない。
ある意味最悪の状態で朝を迎える事になったが、だからと言ってもう一度寝れば夢の続きが見られると言った様な都合の良い話は無い。俺は重い足取りで階段を降りた。洗面所に行って顔を洗う。歯磨きもしておく。寝癖は……何か、もういい気がする。幸い、今日は休日だし。妹には何度も見せているので、今更躊躇はしない。
リビングに行こうとした所で、丁度彼女と遭遇した。
「おはよう、我が妹よ」
謎に口調の変わった挨拶に、俺の妹―――首藤天奈はあらゆる角度から俺を見つめた。
「え、な、何? 急に尊大な口調になっちゃって。ベッドから落ちた?」
「ひでえ言い草だな。それでも妹かよお前は」
「酷いのはお兄ちゃんの寝癖でしょッ? 何でさっさと直さないの!」
「いやあだって今日休日だし。お前の前でくらい、素顔で居たっていいだろ」
「良くない! ほらさっさと直す直す! それ直すまで洗面所から一歩も出ちゃ駄目だからねッ?」
慈悲も容赦もなく、天奈は俺を洗面所まで突き返し、扉を閉めた。普段なら罵倒はすれど『まあいいけど』と流してくれるのだが、何故か今日の彼女はご機嫌斜めだった。
扉を開けようとするが、凄まじい圧力が掛かっていて、俺の全体重を乗せて押しても動かない。表面を叩くと、扉越しに妹が声を荒げた。
「水道の音が聞こえないから開けません! 大人しく寝癖を直しなさいッ、全くもう……」
「水道ってッ! 寝癖直しは何処に行ったんだよ」
「犬に使ったのよ!」
「そういうのは犬を飼ってる家がする事だよ!」
何で犬処か動物も飼っていないのに寝癖直しを使うのか。真偽はともかく、本当に寝癖直しは無かったので、俺は大人しく水道で髪を流して寝癖を直す事にした。冷水で行うべきでは無かったが、効率の為、冷たさは我慢する。
「マジで何に使ったんだアイツ……」
鏡で寝癖を確認する。一度は放置を決めた寝癖は、跡形もなく消えて、そこには彼女欲しさに身だしなみに気を遣っているいつもの俺の姿があった。冷水を使った事も関係しているのだろうが、身が引き締まった気分だ。やはり男というものはこうでなくては。
もう一度扉を開けると、今度はすんなり開いた。段ボールや物が置かれていた様子はないので、あの圧力は彼女の足が生み出したものと考え…………そうなると、俺は妹の足一つに負けたと言う事になるので認めたくない。
片づけたのだ。滅茶苦茶重い何かを。そういう事にしておこう。
洗面所から出てきた俺を待ち受けていたのは、天奈による全身チェックだった。右に左にと移動する妹はエプロン姿という事もあってとても可愛らしかったが、彼女は俺に対してやたら辛辣なので、また洗面所に戻る可能性を考慮すると、心の中でさえ愛でている余裕は無かった。
「……うん。オッケー。それなら入っていいよ」
「空港かよ。何でそんなにチェックするんだ?」
「いや、不審者に声を掛けるななんて言われても、無理でしょ?」
ボケているのは分かるが、ナチュラルボイスでそう言われると、兄として俺は純粋に傷ついてしまった。
まさか妹に不審者扱いされるなんて……。
「だ、誰が不審者か! 俺はお前のお兄ちゃんだろうがッ」
「寝癖で髪の爆発したお兄ちゃんなんて知らないわよ! 私のお兄ちゃんはもっと身だしなみに気を遣ってて、かっこ―――って! 女の人を見る度に涎垂らしてストーカーする人なんだからッ」
「最後で台無しだよ馬鹿たれ! 少しくらい褒めてくれたっていいじゃないかッ」
「すごいすごーい!」
「煽ってんのかコラ!」
俺の掴みをひらりと躱した天奈は、悪戯っぽく笑いながらリビングの奥へと逃げ込んだ。その後を追う様に俺もリビングへ入っていくと―――
カボチャの装飾と紅葉形に切り取られた色紙が、スッキリしていたリビングを色鮮やかに染め上げていた。
「おお…………」
夢とは違って、この状況はすんなりと呑み込めた。天奈がエプロンを着ているのも、朝食を作っていたのではなく、この装飾と合わせて考えるなら―――
「パーティーか!」
「大正解!」
天奈が手を合わせて喜んだ。
「お兄ちゃん、ここ最近ずっと元気なかったでしょ。私知ってるよ、文化祭が中止になった事。だから少しでもお兄ちゃんに元気出してほしくて、頑張っちゃった♪」
「お、お前…………!」
「私も数人呼んでるの。お兄ちゃんも友達呼んできていいよ。文化祭には規模もクオリティも負けてるけど……ね! 元気出してよ、お兄ちゃん」
「あ、あ…………あ」
「天奈ああああああああああああ!」
彼女の配慮に感極まってしまった俺は、人目があったとしても構わず彼女に抱き付いていただろう。俺よりも一回りも二回りも小さい彼女は、抱きしめるにはあまりに丁度いい体格だった。
「ちょっ……お兄ちゃん!? キモイから! キモイから離して!」
「ありがとう……ありがとう…………!」
「ギャあああああああ! お巡りさん、警察! お巡りさん警察! 兄に襲われましたあああああ!」
朝っぱらからこんな風に騒げてしまう俺達は、やはり兄弟なのだろう。口ではそう言いながらも、彼女は満更でもないかのように抵抗しな―――
「チョオップ!」
「ゲハッ! な、何を…………」
「うっさい黙れ変態! 泣く程嬉しかったらさっさと呼んでこい! お兄ちゃんッ」
―――いで欲しかった。
朝チュンはしないが、夢落ちをしないとは言っていない。




