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Good Job☆Nice Worker

ことば屋

作者: 木野晴香

その頃人々は、降り注ぎ溢れ流れ消えて行く文字の渦に何も感じなくなっていた。

空はいつも水彩画から取り出した薄い青に調光されていて、風は快適な湿度で髪を撫で、水は試験管の中から運ばれてきたような、匂いのない酸素と水素の化合物だった。

彼らは何かを話そうとするとき、膨大なデータベースの中から適切な単語を検索し、そしてそれを使って相手に用件や気持ちを伝えるようになっていた。


暑くも寒くもない4番目の月のある日、国民ID・KW66401SA29722の男は、公園のベンチに座っているシフォン風ドレスの女に目を留めた。

白いベンチの後には、満開の桜の映像が浮かび、女の姿の上に花びらを振り撒くふりをしていて、それは、今までに男が見たどの風景よりもよく出来ていた。

いや、その映像の出来栄えが良いのではなく、その映像と、その映像の中にいる女の姿があまりにも美しく融合しあっていたので、まるで女までもが背景と一緒に作られた人工的な映像ではないかと思わせるほど素晴らしい景色に見えたのである。

実際人のいる風景映像もあちこちになにげに配置されていたので、女が人間でなくても何も不思議ではないのだが、女の姿には体温が感じられ、呼吸の気配が伝わって来て、近くに寄らずとも女が本物の人間であることが男には判った。

男は急に胸に何かがこみ上げてきて、その場に立ち尽くしてしまった。

男は女に、話しかけてみたくなった。どんな声の持ち主で、どんなイントネーションで話すのだろうか。

 

吸い寄せられるように、そして自然に、男は女のいるベンチのそばへ静かに歩み寄った。

芝生のシュミレーションの下の床に小さい何かの粒が落ちていたのか、

女の前で止まる前に、足の下でコリリと小さな音がした。

 

女はゆっくりと顔を斜めに上げて男を見た。 

男はデータベースの中から20世紀後半のフランス映画の中で使われた台詞を選び出し、自分が好きな21世紀はじめの日本のアニメの中の台詞とどちらがよりマッチするだろうかと、周囲に配置された映像を見回して考えた。

女は男を見て、

「この人の姿はまるで、先週頭に入れた彫刻作品集の34ページにあった“3分前まで林檎を持っていた友人”の像のようだわ」

と思った。

 

男はゆっくりと首を振った。

だめだ、この女に話しかけるためにぴったりの言葉が見つからない。

どんなにデータベースの中を探してこれと思うものを取り出しても、女の深いラズベリー色の目を見ると、アンマッチの記号が即座に現れ、「どこかが違う、何か違う」と、次の言葉を探さざるを得なくなってしまうのだ。

 

擬似太陽が輝いている方向から18℃の風が吹いてきて、女のスチールグレイの髪をふわりと揺らした。

男は最後の答えを導き出した。

“今までに作られたどんな言葉でも、自分の気持ちは伝えきれない”

 

男は女の目を見つめたまま、待っていて下さいと言うように、ゆっくりと頷き、そして背景の中に消えた。

女は待っていますと答えるかのように、男の残像が見えなくなるまでじっと視線をその座標に固定していた。

 


男は思った。

データベースを探すのはあきらめて、自分の気持ちにしっくり来る言葉を考よう。

しかし男は、他の人間と同じように、もう何年も創作という行為をしたことがなかった。

人々は時間と場所に関係なく分け隔てなく共有されている、人類の繁栄の積み重ねともいえる巨大で無尽蔵なデータベースを持っていたので、もう何も新しく自分で作り出す必要がなくなっていたのである。

男はどこかの街で頭をチラッとかすめた広告を思い出した。

 

-ことば屋。あなただけの新しい言葉。-

 

住所は簡単に探し出せた。そこは少し猥雑な街の裏の路地の、今では珍しい本物の黒い木製の扉の中にある小さな部屋だった。


「ここには、年輪と波紋と明暗と、小さな塵と、そして、歪が存在します」

ことば屋は男にそう話しかけた。

その言葉は、間違いなく、データベースの中には存在しないものであった。

男はこれだと確信し、ことばの注文をした。


ことば屋は男の瞳から注文の内容を読み取った。そして、立ち上がり、湯を豆の粉に注ぎ、

昔誰でもが飲んでいたという、濃い茶色の甘い香りの飲み物を男に振舞った。

男はその熱い液体を味わいながら、目を閉じて女の顔を思い出した。白い頬とうす桃色の唇を思い出した。

白いふんわりとしたドレスの中に小さな肩があった。

すらりと伸びてひざに置かれた腕の先には、優しい曲線で静止した5本の指があった。


ことば屋は男の表情から何かを見つけ、そして新しい何かを生み出した。

「お代金を頂戴してよろしいですか?」

その言葉は、ことば屋の仕事の完了を意味している。

先に代金を払わない客は、生み出した言葉を聞くと、なにかれ難癖をつけて言葉をただで持ち去ろうとする。

他人の記憶領域に侵入して記憶の一部を削除することは今の法律では禁止されているので、

持ち逃げを防止するためには代金の先払いが常識なのである。


男は示された金額をことば屋の口座に送金し、暗証コードを受け取り、ことば屋に伝えた。

「ありがとうございます」

ことば屋は軽く頭を下げて礼を言い、そして

「失礼します」

と挨拶して男の両手を取り、今作ったばかりの言葉を男に送った。こうやって直接送られる言葉は、

データベースに収録されずに、接触した相手だけに伝わるのである。

みるみる男の顔が紅潮し、そして、男ははっきりとした声で言った。

「そうなんです、そのとおりなんです。ありがとう」

探していたものが見つかった男は、木のドアを勢いよく開けて店を後にした。



まるでちいさな宝物を拾った子どものように、男は嬉しそうに目を輝かせて公園のベンチの前に現れた。

女は、男が何かを持って戻ってきたのを察して、立ち上がり、そして優しく微笑んで両手を差し出した。

男は女の手を壊れないようにそっと自分の両手で包み、そして女に、女のためだけのことばを送った。

女はことばを受け取ると、男の耳に顔を寄せて、彼女の声帯を震わせて心からの礼を述べた。

「うれしい。」

男は長い年月を経てたどり着いた旅人のようにほっとした表情で、女の細い体を抱き寄せた。

女はどこか懐かしそうな表情で、両腕を男の腰に回し、胸に顔を埋めた。

二人を取り囲む淡い黄昏の映像の中で、男は女に、女は男に、お互いのあらゆる固有のデータを与え合い、体の中に流れる温かい血を確認し合った。


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