雨ノ訪問者 1
2016/11/29 一話分だったものを分化しました。
狐の女神・久遠と、その巫女・舞姫は、台所の床にしゃがみ込み、年季の入った壺の中をのぞき込んでいた。二人とも同じような巫女服を着て、袖を帯で縛ってまとめている。
「どう、久遠?」
「うむ、良い具合じゃのう」
そう言っている久遠は、金色の尻尾をパタパタと振る。
壺の中身はぬか床で、その上に置いてあるキュウリはほどよく漬かり、ちょうど食べ頃になっていた。
「晩ご飯の時に食べよっか」
それと他の野菜を取り出してから、舞姫はぬか床を揉み込み始めた。
「うむ!」
この時を待ちわびていたぞ、と久遠の金色の瞳を輝かせて、ラップを敷いた大皿の上に置いてある野菜達を見ている。
「……久遠、囓っちゃ駄目だよ」
そっと手を伸ばそうとする久遠を、ジト目で見て窘める舞姫。
「ぬ……。早く晩にならんかのう……」
向かって右側の柱にぶら下がっている、レトロな柱時計を見てつぶやく久遠。
「テレビでも見てればすぐじゃん」
ぬか床を混ぜ終って野菜を戻した舞姫は、壺の周りを拭いてから蓋をした。
「じゃの」
身体が小さな久遠は、よっ、と抱きかかえる様に壺を持ち上げ、戸棚の中にそれを仕舞う。
「ねえ、久遠の部屋に行って良い?」
舞姫は手を洗い終え、エプロンを布巾掛けに引っかけた。
「てれびを見るなら居間でいいじゃろ」
「久遠の部屋がいいの」
二人は指を絡ませるように手を繋ぎ、雨天のせいで薄暗い廊下へと出る。
「しかし、よう降るのう」
「そうだね」
昼頃からシトシト降り始めた雨は、もうしばらく止みそうにはない。
「こう湿気とるといかんな」
雨樋の排水チェーンを伝って、雨水がじゃばじゃばと地面へ落ちていく。
「あ、だから今日はそんなにボサボサなんだ」
今朝から続く高い湿気のせいで、久遠の長い髪が跳ねくりかえっていた。
「もしや寝癖かと思っとったんか?」
「うん」
「ぬ……、舞姫もか」
今朝、彼女の腹心・黄金は、なんとかして髪を整えようとしたが、結局どうにもならなかった。
「でも尻尾はもふもふだね」
舞姫は、歩くのに合わせて揺れる尻尾をつつく。
「当然じゃ。尻尾は儂のあいでんててーじゃからの」
得意げに尻尾を振って久遠はそう言う。
「無理に横文字使わなくても……」
極度に英語の発音が悪い久遠に、苦笑する舞姫。
「いつまでも、苦手にしておくわけにもいかんからの」
黄金には負けられん、と気合いの入った顔で言って、久遠はフンス、と強く鼻息を吐く。ちなみに黄金は、英語を話すことが出来る。
渡り廊下を渡りきった所で、ピタリと舞姫が止まる。
「どうした舞姫よ」
思い出したように、黄金さんと言えば、と前置きをしてから、
「お昼ごろから姿が見えないけど」
どこ行ったか分かる? と主人の久遠に訊ねる。
「黄金なら買い物じゃ」
久遠はそう答え、自分の部屋(本殿)の戸を開けた。
正面に小さなちゃぶ台があり、その周りに座布団が二枚、向かい合うように置いてあった。それを動かしてくっつけ、二人並んで座る。テレビを付けると、夕方のニュースが放送されている。
「……それにしてもやけに遅くない?」
舞姫が黄金を最後に見てから、もう四時間も経っていた。
「また道にでも迷っておるんじゃろ」
黄金は方向音痴ではあるが、暇を見つけては地図とにらめっこしているおかげで、近所なら迷うことはほぼ無くなった。
「だと良いけど……」
「何かあっても黄金の事じゃ、独力でなんとかするじゃろうて」
久遠はふと、部屋の奥に置いてある大きな水晶を見た。
「ぬぬ」
そのてっぺんの辺りが、欠けて平らになっていた。
「うーむ?」
彼女は四足歩行で近づき、手に取ってそれを確認する。
「綺麗に欠けちゃってるね」
舞姫はそんな久遠の傍にきて、横からのぞき込む。
「かけらを探さんといかぬな」
ひとまず上下を逆にして、久遠は水晶をもとの場所に戻した。
「もしかしてこの前のせいかな?」
「その可能性はあるのう」
数ヶ月前の騒動の際、久遠は力任せに結界を破壊してしまった。その衝撃でガラスや皿が割れ、瓦が飛んだりなど、家に多少損害が出てしまった。
「ごめんね、久遠……」
そんな事態になった理由は、敵に攫われた舞姫の救出と、敵への報復に向かうためであった。
「いやいや! 舞姫に責任はないぞ!」
久遠は慌てた様子でそう舞姫に言って、わたわたと手を振り回す。
「でも私が攫われたから……」
「儂がそう言うんじゃからそうなんじゃ!」
膝立ちになった久遠が、うつむき加減の舞姫の頭を優しく抱く。
「気にするでないぞ、舞姫。あの一件はのう、大体に儂が根源なんじゃ」
言い聞かせるように、我が子を愛する母のように、久遠はそっと彼女の頭を撫でる。
「うん……」
舞姫は久遠の細い腰に手をまわし、ギュッと抱きしめた。
「こうするのは、久々じゃのう」
久遠の尻尾がパタパタとゆれている。
「そうだっけ?」
「うむ。儂がこのナリになって以来じゃ」
舞姫の成長と共に消費する妖力が増え、八尾の状態が維持できなくなった。そのため、久遠は仕方なく、消費が少ない小さな姿で生活するようになっている。
「言われてみればそうだね」
二人が元の位置に戻って、身を寄せ合っていると、
「あ」
「なんじゃ?」
画面に映るニュースの温泉特集を見て、舞姫はあることを思い出した。
「最後に一緒にお風呂入ったのって、結構前だったよね?」
幼い頃は二人でよく風呂に入っていたが、近頃はめっきり舞姫一人だけで入っていた。
「……そうじゃのう」
久遠は、その頃の舞姫の姿を思い出してそう答える。
「それじゃあ、今晩入ろうよ」
嬉々として久遠に提案する舞姫。
「いや、やめておくのしゃ」
だが、すこし嫌そうな顔をして、彼女は舞姫の申し出を断った。
「ええー、良いじゃん入ろうよ」
唇を尖らせて、そう言った舞姫に、
「嫌なものは嫌じゃ!」
久遠は少々強い口調で再度拒否する。
「なんでそんなに嫌なの?」
「炎で浄化するからの、湯に浸かる必要はないんじゃよ」
不機嫌そうに彼女の尻尾が動く。
「でも昔は一緒にっ……」
「あの時は舞姫が溺れんか心配での」
もう溺れはせんじゃろう? と断固拒否の構えを見せる久遠。
「もう! 久遠の意地悪!」
珍しく食い下がっていた舞姫は、そう言って部屋から飛び出してしまった。
「……」
ちょっと意固地になりすぎたかのう……。
とは思った久遠だが、これも舞姫のため、と心を鬼にして後を追わなかった。
「……黄金はどこに寄り道しとるのやら」
いくら何でも遅すぎるので、取りあえず管狐を飛ばして市中を探させる。
あやつの事じゃから、心配はいらんじゃろうがの。
開けっ放しの戸を閉めて、久遠は本堂の中をうろうろし始めた。
「たまには良いじゃん!」
ふくれっ面の舞姫は、脱衣所の床に体育座りして、湯が溜まるのを待っていた。大きくため息を吐いた彼女は、ショートパンツとティーシャツのラフな格好に着替えている。
『お風呂ー! お風呂ー!』
服を脱ぎ捨てて戸を開けた幼い舞姫は、それなりに広い浴場に突入していく。
『転ぶぞ、舞姫』
後から入ってきた久遠は、はしゃぐ舞姫を抱き上げて風呂イスの座らせる。
『なにがそんなに楽しんじゃ?』
『わかんないけど楽しい!』
舞姫の腰の下辺りから顕現している、半透明の尻尾がブンブンと振られる。
『そうかそうか』
石けんを手にして微笑む久遠。舞姫は鏡越しにその様子を見ていた。
そのことを思い出して、舞姫は苦笑いを浮かべる。
「何があんなに、楽しかったんだっけ?」
立ち上がった彼女は、そろそろ溜ったかな? と浴槽の水位を確認したが、
「あれ?」
いつもなら、もう十分溜っているはずたが、全くと言って良いほど湯は溜ってはいなかった。
「うーん?」
栓の閉め忘れかな? と、考えたが、風呂の栓はしっかりと閉まっていた。
舞姫は一応、蛇口を締めてから本殿へと向かう。が、住居と拝殿を繋ぐ渡り廊下の辺りで、はたと彼女は立ち止まる。
それは先程の一件もあって、ちょっと気まずいと思っての事だった。
うん、たまには自分でなんとかしよう。
と、きびすを返した舞姫は、耳と尻尾を顕現させて裏へと回る。先程まで降っていた雨は既に上がっていた。
来てはみたものの、そこには何の気配も無かった。
「妖怪とかだと思うんだけどなあ……」
首を傾げながらその場から去った舞姫。そこの地面が異様なまでに乾いている事に、彼女は全く気がつかなかった。
「あれって……」
拝殿の正面にやってきた舞姫は、見覚えのあるトートバッグを、境内の石畳横で見つけた。
やっぱり黄金さんのだ!
それはよく、彼女が買い物に使っている物だった。ずぶ濡れのその中には、パック詰めされた肉と、近所の人からのもらい物らしい野菜が入っていた。
「久遠に知らせなきゃ……っ」
つべこべ言っている場合じゃない、と判断した舞姫は足早に拝殿に向かう。
「……? っ!」
何かの気配を感じて後ろを振り返ると、透明な蛇のような物が、彼女めがけて襲いかかってきた。
とっさに身を捻りつつ、横っ飛びをしてそれを回避したが、その着地点から同じようなものが飛び出し、舞姫の肢体に絡みつく。
「くお――、むぐっ!」
舞姫は久遠に助けを求めようとしたが、その口に蛇の頭が突っ込まれた。引きずられながらも、それから逃れようとする舞姫。身じろぎする度に、締め付けがきつくなっていく。
久遠……っ
なおも暴れる舞姫の腿に蛇が噛みつく。
たす……、けて……。
次第に身体が痺れていき、ついには動けなくなってしまう。おとなしくなった舞姫を、蛇は社の横の森へと素早く連れ去った。