君の笑う夜
学生達が旅行に浮かれて騒ぐバスの中、アンヴェルローザは隣に座る香月忍が自分に向かって何かを差し出したことに気がついた。
「何か歌いますか?」
彼女の差し出すものが音声を拡大する機械の入力端子、マイクであると把握したのは二呼吸後だった。もう一呼吸分だけ思案して、結局頷いたアンヴェルローザは、それなりに自分も気分が高揚しているのだな、と冷静に自分を分析して、同時に少しだけ感心した。
「どんな曲、入れますか?」
続いて忍が差し出してくる分厚い本──おそらく曲目の綴られているもの──を軽く手を振って断り、彼女は前の座席の背もたれを掴んで立ち上がった。どうせ本の中にアンヴェルローザが知っている曲は無い。
彼女は己の身に宿る魔力を振動として放出した。空気を震わせるそれは音楽。たまには魔法をこういう風に使うのも悪くないのだ、と、改めてアンヴェルローザは穏やかなこの世界の事に思いを馳せる。
「 La Xhagza, exhtaria. Y et kult il falta── 」
知らない言葉で歌い始めた彼女に、興味深そうにバス中の学生達がその注意を向ける。中には魔法を初めて目の当たりにした者もいたらしく、ひどく感心したような視線を幾つか感じて、アンヴェルローザは殊更に歌に心を込めた。
彼女は普段、歌を魔法として扱う身だ。自分の歌声がどれほど力を持つかは知っている。聞くものを惹きつけて、心に安らぎと高揚を与えようと、スローテンポの複雑な旋律を丁寧に紡ぐ。
故郷に伝わる古い祈歌は、アンヴェルローザの記憶を否応無しに揺り起した。
今はもう遠い世界。いつか帰るのだろうか……。
彼女は揺れる感情をそっと押し込めた。今は、この歌をここにいる者達のために歌いたい。
***
アンヴェルローザは異世界の賢者である。二柱の神が己の身に喜びをもたらす為にその存在の全てを持ってして作り上げた世界で、彼女は力ある存在として生まれ落ちた。
世界に己の望みを写しだす力──それを地球では魔力と呼称するらしいが──彼女はその力に富んで、扱う術──これを地球では魔術と呼ぶ──を識っていた。また、声なき者の声を聞く事に誰よりも長けていた。アンヴェルローザは生まれながらに、自分がそれらを支配出来る事を知っていた。
生まれてから17回月が色を変えた頃、彼女は人が争い続ける世界中の国々を放浪し始めた。彼女は次代の神になるべくして生まれた器のうちのひとつだった。
それに気づいたのは、彼女が無意識に二柱の神の気配のある所を辿っていた事を自覚した時だった。神の子たち──地球で言うところの竜に似た存在──が彼女を気に掛けていた事が何よりも確かな証拠だ。
だが、彼女は地球へと次元を越えて来てしまった。
四年と少し前、抜けるように青い空を呆然と見上げたことを思い出す。彼女の世界は赤く濁り滲むような乾いた景色、灰の降り積もる寂弱の広大な地であり、空の向こうには二対の神のうちの一柱の所有する異界の大地が広がっていた。
次元の超越者たる神に非ざる身でアンヴェルローザがどうしてそれを果たしたのかは、彼女自身も分からない。
兎に角彼女は、神と成る賢者から、異世界から来た絶大な魔力を宿す魔術師へとその存在を確かに変えた。最早彼女には、彼女の世界の何一つを感じる事は出来ない。
世界を渡る少し前、おかしな違和感が全身を包むようにして彼女に何かしらの異変を伝えていたのを思い出す。無意識の焦燥感を煽るそれは、次元を越えたこちら側まではついてくることは無かった。その事が逆の意味で焦燥を煽る。向こうの世界に異変があったのだと、アンヴェルローザは感覚でそれを解していた。
いつ聞いたのかさえ思い出せない、アンヴェルローザ以外の神の器のひとつ、イースという青年の声にならない慟哭。虫の鳴く声の如きそれが、彼女の脳裏に澱を残している。
イースと向こうの世界に何かがあった。そうして運命は狂い、アンヴェルローザがこの世界へと落ちた。
もう手の届かない世界で何が起こっているのか、彼女には知る術も無い。
こちらの世界で彼女を保護したのは、日本と呼称される人間の国の──地球上の理性ある知的生命体が人間に限られているのは余談として──とある【学園】だった。
【学園】──正式な名称をアンヴェルローザは知らない。この組織は特異な人間を集め、保護し、その特異さを研究する。……別の言い方をするならば、一人ひとりに特別な能力との付き合い方を習得させ、活かす方法を提供する為のものだ。他、社会に適合させる為の教養の講義なども行う。
教育機関の一つだが、その特異さは秘匿されるべきものであるそうで、常識の粋を出ない能力しか持たない子供に向けて開かれたクラスも教育機関としての体裁を整える為に存在する。
それ以上詳しい事をアンヴェルローザは知らない。ただ、この世界では調和と同調が好まれるのだという事だけは理解している。
取り敢えず、アンヴェルローザ達、秘匿された特異な生徒は、そうでない者の方に合わせ、紛れて生活する必要があるらしい。
***
異世界の歌を歌い終えたアンヴェルローザは、盛大な拍手でもってクラスメイト達に讃えられた。
特異能力を持った者だけが集まるクラスだが、アンヴェルローザの特異性は一際高く、彼女はこれまでに自分の所属するクラスの生徒の誰一人とも接点が無かった。
今回の旅行──修学旅行、というらしい。教育機関が行わなくてはならない必須のプログラムのうちの一つだと教師はアンヴェルローザに説明した──で彼女は初めてクラスメイト達と行動を共にする。友好的な関係は築けるに越したことは無い……こちらの常識的に考えるならば。
アンヴェルローザはクラスメイトからの歓迎の意を含んだ拍手を満足気に受け入れた。
「今の、なんて歌なんだ?」
真後ろから真実興味と感心を織り込んだ声が掛けられて、アンヴェルローザは座席に下ろした腰を再び浮かせた。振り向くと彼女の視界いっぱいに大男が写り、彼女はああ、とその姿が印象に残っているのに気付く。
条島英敏、その全身に浮かぶのは無数の傷痕だ。アンヴェルローザの倍はありそうな程の巨大な体躯を窮屈そうに二人用の座席に押し込めて、その風貌からは想像もつかないほど穏やかに微笑んでいた。
「うたのなまえ」
アンヴェルローザが質問の意味を確認するために呟くと、英敏がそうそう、と頷く。
「Ritlio xhagza……シャグザ、への感謝」
ぽつぽつと呟くように喋るアンヴェルローザの日本語は、四年経った今でも少々覚束ない。
彼女は様々な事情から学園にある自室から外に出る事が普段から少なく、実践的に日本語を話す機会も殆ど無い生活を送っていた。
今回の修学旅行から日常が変わるだろうか、と、アンヴェルローザの頭の片隅に期待に似た感情が浮かぶ。独りは嫌ではないが、誰かと話したりするのは悪くない。どう過ごすかを自分で選べるならばそれに越した事はないのだ。
「シャグザ?」
英敏とアンヴェルローザのやり取りを見守っていた忍が首を傾げた。説明を求めているのだ、と判断し、アンヴェルローザは辿々しい日本語を組み立てる。
「かみさま、の、いのりからうまれた、かみさま」
「………えっと?」
怪訝そうな顔を二人から返されて、うまく説明出来ない事にアンヴェルローザは戸惑う。
「……わたしは、べつせかいから、きた」
まずは自分の世界の事について話さなければ、二人は理解ができないと思い至った彼女に、英敏が「知っている」と頷く。アンヴェルローザが異世界人であること、こちらの世界の常識に疎く、フォローが必要であることをクラスメイト中に担任の教師が広めていた為だ。
「わたしのせかい、ふたつのかみさまがつくった。」
二柱の神、エル・エシュタリアとヴァン・アヴラス。
死と生、有限と無限、秩序と混沌、執着と奔放、闇と光、夜と朝、これらを二分して受け持つ神々は、赤い地が平行に二つ、永久に続く世界で寄り添い合って目醒めた。
彼らは創世の神アトゥリアの理性と願望、天上天下に別れた赤い地はアトゥリアの身体と血だという。
ヴァン・アヴラスはアトゥリアと同じように創世の神となった。
天下の赤い地を切り取って丸め、エル・エシュタリアの為の有限の世を作り出した。
二つの輝ける瞳をえぐり出して放ち、太陽と月に変え、光と闇が巡るようにした。
痛みより流れ出た涙は水になった。
血と肉と骨は朝に生けるものどもとなった。
祈りは祝福に、吐息は風になり、エル・アトゥリアの地に満ちた。
深い愛の心を月に宿し、エル・エシュタリアに寄り添うよう、夜に侍らせて捧げた。
最後に残ったヴァン・アヴラスの魂は、無限に広がるアトゥリアの大地へと旅立って行った
エル・エシュタリアは月を受け入れ、子を宿した。
子は暁より来たりて黄昏に還るものとなった。これが神の子、竜である。
そして涙をまた、ヴァン・アヴラスへと捧げた。これはヴァン・アヴラスの心宿る月に寄り添って、
星々となった。
己のうちの寂寥と悲嘆に身を焦がして、刃造り出してその身に突き立て、二つを抉り出し、朝の中へと置き去りにした。これがヴァン・アヴラスの血肉に宿り、人となった。
そうしてエル・エシュタリアは遠き暗闇の中に眠りの館造り、夢の中に横たわる。
死せる夜の神はただ一柱の命運司りし眠る夜の神となり、今も夢の中で、眠れるものども全てを治める。
ヴァン・アヴラスの祈りと、エル・エシュタリアの寂寥と悲嘆は願いとなって、一つの神となった。
願い叶えたる神、シャグザ・エシュタリア。
生きるものたちに世界に望みを写し出す術を与えた神、喜びの神、祈りの神、願望の神。
アンヴェルローザの母なる神。