捨てた女に彼女取られた話
五年前に半年だけ付き合った背の高い女の事を、圭助はもう殆ど覚えていない。
身長が圭助と並ぶ程高く、凹凸は無いがスラリとした体躯。白人の血が混ざっているという繊細で整った顔立ちだと、単に情報化されてしまったその女の外見を、圭助は当時散々周囲にみせびらかした事だけは覚えている。
別れは、その女の身長の高さに嫌気が差した事ですんなりと訪れた。
女がどのように別れ話を受け入れたのか、それすらももう思い出せない。
名前は何といっただろうか。薄ぼんやりと、確かナルミだったか、辛うじてそれだけはまだ記憶に残っていた。
──それが。
圭助が婚約を申し込んだ女の肩を抱いている美形の顔を見て、圭助の心臓はばくばくと痛い程に疾駆していた。
奮発した小洒落たホテルのレストラン。暖色の間接照明で照らされた、優雅な空間に静かに響くジャズの音さえもう聞こえない。
「久々だな」
男性にしては少しだけ高いテノールボイスが、圭助の衝撃に揺れる頭に滑り込んでくる。
「悪いが、こいつはお前と結婚は出来ない」
いっそ優しげな程穏やかな声だった。
五年前に身勝手な理由で捨てた女の美しい顔をはっきりと思い出して、圭助は思わず身震いする。目の前で自分の女の肩を抱く、何処からどう見ても上等な男にしか見えないそいつの顔と、記憶の中のそれが見事に一致した。
「お、前……っ、なんで……!」
圭助には手の出せない値段の、上品なブランドのジャケットとスラックスに身を包み、華奢さは無いが細い手首にはよく似合う男物の腕時計が光っている。それは圭助の憧れのもので、この先何十年も貯金をして漸く買えるような値打ちのものだった。
それを違和感無く着こなしているのは、間違いなく圭助が五年前に振った女、ナルミである。女性らしい丸みを全く感じさせない薄い体の線は何一つ変わらず、まるでモデルのようだ。
「彼女は私の秘書でね。お前には本当に悪いんだが、彼女の有能さはまだ手放せ無い。それにまぁ、うちの会社に下心をもって求婚してくる奴に嫁がせる訳にも行かないしな」
ナルミが楽しげに喋る言葉に、今度こそ圭助は体の芯から凍り付いた。
圭助はとある企業の営業職だ。そして、圭助が自分の会社でのし上がるために取った手段が、目の前でナルミの腕の中に大人しく納まっている女──平原由佳里との結婚である。
由佳里はここ四年間で成長の目覚ましいとある新興企業の社長の秘書を務める女だ。彼女を抱き込んで、それをコネにして自分の会社と彼女の会社を結び付ける──それさえ出来れば、圭助はうまいこと昇進の流れに乗れる。それほど由佳里の会社が自社に利益を齎すであろう事を、それを調べ上げた圭助自身がよく知っている。
伝手を最大限利用して由佳里と知り合ったのが一年と半年前、付き合い始めたのは一年前、そして今日、仕上げのプロポーズで彼の計画は第一段階を無事に終える、筈だったのだ。
「……は、?」
ナルミの言葉が全く理解出来ず、圭助はただぽかんと口を開けて彼女を見た。
「自分の元カノの名前も忘れたのか?」
ナルミがせせら笑う。圭助の額にじっとりと嫌な汗が浮かんだ。
慌ててスマートフォンを掴んで画面を表示させる。先程まで由佳里の会社の情報を悦に浸って眺めていた圭助の、携帯端末の上にこの三年間何度も眺めた代表取締役の名前が飛び込んできた。
久我成光──男の名前だと思いこんでいた、ナリミツと呼んでいた。だから元カノの名前なんて、かすりもしなかった。
プロポーズの場に選んだこのレストランは、圭助の稼ぎには沿わない。一番良いスーツを着てきたつもりだが、他の客からすれば安物で、圭助は酷く浮いていた。
それなのに、殆ど私服に近いラフな格好のナルミはどうだ。まるで溶け込むようにこの雰囲気とマッチしている。格の違いを見せつけられたようだった。だが、何故ナルミが。
「心配するな、由香里。必要なら見合い話を幾つか見繕う」
ナルミのこれまた愉快そうな一言に、漸く圭助は、一年付き合った男に見向きもせず、由香里がナルミを見つめている事に気がついた。不安げに揺れる顔は、それでも圭助を捨てる事にではなく自分の将来の事しか憂いてない。
「ゆ、由香里……?」
半分泣き笑いになりながら圭助は由香里の名を呼んだ。打算尽くめで近づいた女ではあったが、一年も共にいれば情も沸く。それでなくともこの一年間、圭助は由香里に対して真摯な態度を貫いたつもりだった。この女なら人生のパートナーとして、と考えたのも確かだ。
「……ごめんなさいね、圭助さん。私、社長以外に優先するものは無いのよ」
由香里はテーブルに置かれた指輪のジュエリーボックスを、そっと圭助に向けた。
「お前の悪い癖は、自分の目的に絡む事以外に無関心なところだね、圭助。昔から変わらない。」
求婚をはっきりと断られ、呆然とする圭助にナルミの非情な指摘が追い打ちをかける。
「お前と付き合っていた頃には私は今の会社を立ち上げていたんだよ。まぁ勿論軌道に乗る前で、名前も知られてなかったけれど。資本三百万の子会社じゃ当然だよな」
いつから、という圭助の疑問をいとも容易く汲み取ったナルミが、まるで小さな子供に言い聞かせるような口調で語り始めた。
「社交の場でパートナーになる相手を適当に見繕わなければならなかったから悪いがお前の擬似的な彼女にならせてもらったよ。まさか馴らして連れ出す前に背の高さを理由に振られるとは思ってなかったが。」
その言葉を最後に、ナルミは鮮やかに踵を返してレストランを去っていく。その腕に由香里を抱いたまま。
「……畜生ッ!!」
まるで女を寝取られた惨めな男の気分で、圭助は手のひらをキツく握りしめた。




