現人神は斯くも語らぬ
沢山の人生を繰り返し歩む程、欲とは薄れていくものらしい。精神の老熟することも叶わないまま、私は水に揺蕩うが如くに。
その内、私という認識ですら薄れゆく。
記憶に留めおく事すら出来ない名前の数々。私を表す名は一体何なのか、今や私は解らずにいる。
◆ ◆ ◆
……此度に生まれた国は、既に疲弊しきっていた。
血濡れた王の血脈は総じて国財を根こそぎ持って亡命し、次に覇権を握ったのは剣を握った事すらないまま私腹を肥やす、国軍の上層部ども。
骨と皮だけの国民は飢餓や疫病で男も女も窶れきって弱々しく、最早どうする事も出来なかった。
奇妙な鳥形の光が弱々しく視界の隅でぴぃと鳴く。
鳥が離れていく人間は死んでいった。いつしかその事に気がついた。この世界では人の魂魄は鳥の姿を取るようだ。
どうにか一年を生き残った、それでも日に日に頬の痩ける親は夜闇に紛れて口減らしの相談をするようになった。
母の乳はもう出ることは無くなって、私は飢えと乾きに喘いでいた。故に私がその対象である事は明白だった。
彼等の話す口減らしは、捨てに行くなどという優しいものではない。赤ん坊なら食えるだろうか、父の弱々しく吐いた言葉に、久々のおぞましさを覚えた。幾度死ねども死の恐怖は薄れるばかりか、経験を重ねる度いっそう深まるばかりであった。
或いは私は、今や曖昧な存在と成り果てた自身を失うことそのものを恐れていたのやもしれない。
暫し物を考えて、口を利いた。
川を昇れ。生き残るにはそれしかない。
赤子が話した、と慄いたその時の父母の顔は、これから幾ら生まれ変われども、きっと忘れることは無いだろう。
父母は夜中に静かに家を出た。母が私を胸にしっかと抱き、父はあねとあにとの手を引いて、村外れのどぶ川をものも言わずに辿っていった。
腐臭のする汚れた川へは獣も寄り付きさえしない。
人の多い村や町にばかり国を喰い物にする豚どもは目を向けていたので、生きているのも殆ど数人を残すのみ、草の根や他人の死骸を齧って辛うじて生きているような者共の住まう村には既に逃亡民を見張る目など置かれてさえもいなかった。
そんなふうだったから、父母は、誰にも見咎められること無く村を後にすることができた。
朦朧とした意識で、泥水を啜りながら三日は歩き通した。轟々と水音の強い上流にたどり着いて漸く川の底が見えるようになった。
そこには見知った形の魚が居た。鮎だ。
この国では魚は食べない。食べれるものだと伝わっていないようだった。
川は死体や糞尿を流すもので、魚は死を齎すという伝えがあった。現実に下流の奇形な魚は汚れに汚れ、人には毒でしかなかった。
しかし、それが幸いしたのであろう。川の上流にあった村は五十年も前に滅んで、人の寄り付かぬ場所となっているらしい。そうして、ここには毒のない水と魚がある。
二言目の口を利いた。
魚を食え。生き残るにはそれしかない。
おずおずと掴んだ鮎を食い破った両親は、久々の食べ物に耐えきれずに吐き戻した。
やはり毒が、そう怯える彼等のためにもう一度口を利いた。耐えれぬなら先に水を飲め。火を炊いて湯を沸かせ。
恐々としながらそこらに転がる枯れ木に何とか火をつけて、父母とあねたちは白湯を口にした。
その日は家をでてから初めて少しだけ横になる事が出来た。
次の日も歩みは緩まなかった。川を辿って、黙ったまま。
夜近き頃に、草の生えた大地をしばらく振りに見渡した。天は私に味方したのだ。この国に、まだこんな場所が残っていたなんて。
白い鳥形の光が視界いっぱいに広がって、ぴぃぴぃと囀っていた。
後から知ることだが、この国は大海にぽかりと浮かんだ縦長の列島であった。
その真ん中にだけ人は住んでいて、国が最初から私欲に支配されていたからこそ、この自然は生きたまま残っていた。領土を広げる力すら持たぬまま、この国の民は遙か立国の時より飼い殺されてきたのである。
幾日かが過ぎた。
父母は草を入れた汁を飲んだ。鮎を食べるようになった。川辺の背の高い葦の中に浮島と囲いを作り、その中で生気を取り戻していった。
あねが鳥から教えて貰ったよ、と、薪に葦を向けて火を灯した。
あにが鳥から教えて貰ったよ、と、母に葦を翳して、再び乳が出るようになった。
鳥が見えるのか、あねよ、あによ、そう尋ねれば彼らは勿論、と頷く。父母は顔を見合わせていた。
お前たち、方士の力を受け継いでしまったのか。そう言っていた。
国にはもう、戻らない方が良い。鮎を干して糧を作り、この葦の中で時を待った方が良い。
これを告げるとどうにも酷い眠気に襲われた。
それからの事は、とてもぼやけている。普通の赤子のように日がな寝て過ごした。
時たま母の乳を吸い、木の実を砕いて煮たものを啜った覚えがある。
白い鳥はいつも囀っていた。
葦を編んだ小屋の中で、随分長い時を微睡んでいた。




