レスタとアグラの話
「ぼくのあたま、とうとうおかしくなったんだ・・・」
ハエが飛んでいる、とレスタは思った。ぶんぶんぶんぶん、耳元に近づいたり離れたり、酷くうるさい。
天井から吊るされた明かりが隙間風でぶらぶらと影を揺らしていた。レスタはぶらんと下に垂らしていた右腕をベッドの上に引き戻して、その反動で逆側へと寝返りを打った。
隣のベッドではアグラが蹲っている。
「おねえちゃんどうしてぼくをおいていったの僕をさしたのいつもどって来るのむかえにきてくれるのねえどうしておねえちゃんおかあさん動かなくしたのおねえちゃんどうしてぼくを」
アグラは虚ろな目で、湿気って黴の生えた木造壁を見ながらブツブツと呟いていた。そこで、レスタは、どうやらハエの音だと思ったのがそのアグラの声だったことに気が付いた。
「アグラ、うるさいよ。そんなのカベに向かって言ってないで、ちゃんとおねえちゃんに会った時に言いなよ」
「・・・・・・。」
だんまりだ。嫌気の差したレスタは溜め息を吐いて、ついでに頭をガリガリと掻き毟った。最近はロクに水も貰えないので頭が洗えず、ずっとムズムズとしたかゆみがある。指先にべったりとついてしまった脂をベッドの隅に丸まっているボロ布でふき取って、それからレスタはその布をアグラの頭めがけて投げつけた。
布はふわりとほどけて、ただアグラの頭に乗っかっただけだった。アグラはそれを払おうともせず、顔が見えなくなったのをいい事にまたブツブツとやりだしている。
「なんだよ。左の腕だってちゃんとついてるし、もうケガも治ったくせに」
舌打ちしながらレスタは右手の指先をそっとぽっかりと空間のあいた左肩のあたりに這わせた。ざらりとした、奇妙に柔らかい皮膚の感触とともに、触れたところにチリチリとした微かな痛みが走る。痛みはもうずっとある。多分一生この痛みは続くんだろうな、とレスタはぼんやり考えた。
「レスタ、アグラ、ご飯です」
部屋の外の暗い廊下から、ぬるりと音もなく女が現れる。
レスタは女の持った盆の上をちらりと伺ったが、そこにはお椀がたった三つ乗っているだけだった。
レスタは静かに視線を戻した。唇をぎゅっと引き結んで、口から余計な言葉が飛び出さないようにした。
「・・・せんせい、ぼく、おかあさんのところにいかなきゃ・・・」
アグラが女に向かってぼそぼそとそう言う。女は綺麗な顔ににっこりと教会の聖母像のように美しい笑みを浮かべると、お盆をレスタのベッドの上に置いて、それから勢いよく布の被さるアグラの頭を引っ叩いた。
軽いアグラの体はそれだけで吹き飛んで、ベッドから転がり落ちる。アグラはひっくり返った虫のように奇妙な動きで身もだえると、ボロ布を引き寄せてそれに頭をうずめながら、ひたすら「おねえちゃんおねえちゃんおねえちゃん・・・」とまたブツブツやり始めた。
「せんせい。ご飯を食べてもいいですか?」
レスタはその光景をなるべく見ないよう、じっとベッドの端にあるお盆を見つめた。
レスタの声に女がくるりと振り返る。彼女はふっくらとした頬を緩ませながら、「はい、どうぞ」と頷いた。
明かりがゆらゆら揺れている。それに合わせて、部屋の中のカゲボウシもやはりゆらゆらと揺れていた。光源が明滅するせいで、影は細かく浮かび上がったり沈んだりを繰り返している。
子供のちょっとイカれた不思議チックな冒険ものを書こうとして、途中で飽きてしまったもの。書いていたら熱烈にドグラ・マグラを読みたくなって、読んでいたら満足してしまった。